▼『ドリナの橋』イヴォ・アンドリッチ

ドリナの橋 (東欧の文学)

 ボスニア地方の美しい石橋「ドリナの橋」を舞台に,橋の上を去来する人間たちの運命を中世から400年にわたって,あたかも大河の流れのごとく,静かに,ゆったりとした筆致で描くノーベル賞作家イヴァン・アンドリッチの代表作――.

 ーゴスラビア連邦共和国は,2003年にセルビア・モンテネグロに国名改称,さらに2006年のモンテネグロ独立によって地球上から消滅した国家である.「7つの国境,6つの共和国,5つの民族,4つの言語,3つの宗教,2つの文字,1つの国家」と形容された国際的位置は,6つの構成共和国からなる国家的枠組みに移行しても,その系譜が終焉したわけではない.イヴォ・アンドリッチ(Ivo Andrić)が幼少期を過ごしたボスニア・ヘルツェゴビナのヴィシェグラードには,モンテネグロの山の頂を源とするタラ,ビヴァ2つの支流からなる全長346キロのドリナ川が流れている.エメラルド色の水流は,バルカン半島セルビアボスニアの境界近くに達し,ヴィシェグラードに暮らす人々を潤してきたという.オスマン帝国大宰相ソコルル・メフメト・パシャ(Sokollu Mehmed Paşa)の命により,宮廷建築家ミマール・スィナン(Koca Mimar Sinan)が16世紀末にドリナ川に架けた橋が,メフメド・パシャ・ソコロヴィッチ橋である.

 オスマン帝国の建築様式の粋を集めた橋は,全長179.5m,11の石組みのアーチから成っている.ヴィシェグラードに育った少年期のアンドリッチは,この白く美しい橋を眺めて暮らしていた.ヴィシェグラードを離れてからは,古くからサラエヴォイスタンブールをつなぐ要地であったボスニアにおける故郷,民族と宗教の坩堝がもたらした様々な“物語”を回顧し,そこからの“めざめ”を得たであろう.本書は,橋のたもとにあるトラヴニクという町を舞台に,メフメト・パシャの出自から16世紀ドリナの橋建設を叙述する.17世紀から19世紀にかけては,トルコがハンガリーを撤退,橋は大洪水にも耐え,生を全うしようとする人々の群像が描かれる.さらに19世紀から20世紀初頭では,オーストリア軍の進駐,聖職者に迎えられるオーストリア大佐の物語,鉄道敷設,ホテル建設など文明開化が町の交流を活性化させ,セルビアがトルコに勝利するバルカン戦争の描写がなされ,都会の大学で学んだ学生らがトラヴニクに帰省して交わす論戦は,リベラルやペダンティックな論理である.

 最後の章では,1914年の第1次大戦勃発,オーストリア軍撤退時に戦術上の要請から,ドリナの橋は爆破された.そうして,先祖代々橋の管理を司った敬虔な回教徒の老人アリホジャは,無残に引き裂かれた橋を見届けた後,それが現実であることを受け止めることができないまま,坂道に昏倒して喘ぎながら絶命したのである.4世紀近くに及ぶ時の流れを,橋はひきも切らぬ戦闘や大洪水にも耐え,橋上を行き交う旅人や儀式の行列,名も記録されない無数の人々を見守り,民族,宗教,言語の衝突や離合を沈黙のうちに包容し続けた.ドリナの橋の存在とは,セルビアボスニアサラエヴォイスタンブールをつなぐヴィシェグラード,あるいはトラヴニクの鎮守であることが本質,意義だったのである.アンドリッチは,1961年「自国の歴史の主題と運命を叙述し得た叙事詩的力量」が評価され,ノーベル文学賞を受賞した.ボスニアの苦難の歴史と運命の渦中にあって,存在理由を問い続けなければならない人間の無常が,歴史の主題や叙事詩という文学性に結晶しているといってよいであろう.

橋も老いた.だが,人間の生涯よりも,いや,数世代よりもずっと長い時の尺度に応じてなので,目で見てもその老化はわからない.橋の生命は,不死ではないにしても,永遠を感じさせた.いつその終わりが来るともわからなかったからである

 結末の後に,アンドリッチの文学性をイズム化したようにも読める.アンドリッチは,第1次世界大戦中,南スラブ民族解放運動に参加した由でオーストリア官憲に逮捕,投獄された体験を経て,西欧諸国でユーゴスラビア外交官生活を送った.祖国ボスニアに題材を求め,壮大な構想と静謐なリアリズムからなる長編三部作『ドリナの橋』『ボスニア物語』『サラエボの女』を発表した.これが直接的にはノーベル文学賞授賞理由に結ばれることを考えれば,第1次大戦勃発とともにその存在にピリオドを打たれたドリナの橋が,現実の橋としての生命を絶たれたことで,ユーゴスラビアが宿命的に背負う悲しみや抒情を――アンドリッチが文学上の功績として――世界に架ける重大な契機になりえたと理解できるだろう.メフメド・パシャ・ソコロヴィッチ橋は,本書に描かれた通り,第1次大戦,さらには第2次大戦でも壊滅的な損傷を受けたが,1950年代に再建され,2007年にユネスコ世界遺産に登録された.ボスニア・ヘルツェゴビナ東部のスルプスカ共和国の町ヴィシェグラードに現存している.

++++++++++++++++++++++++++++++

Title: NA DRINI ĆUPRIJA

Author: Ivo Andric

ISBN: 4770402201

© 1972 恒文社