▼『科挙』宮崎市定

科挙―中国の試験地獄 (中公新書 15)

 二万人を収容する南京の貢院に各地の秀才が官吏登用を夢みて集まってくる.老人も少なくない.完備しきった制度の裏の悲しみと喜びを描きながら,凄惨な試験地獄を生み出す社会の本質をさぐる――.

 よそ70万余字「四書・五経」.その暗記から始まる“科挙”対策は,この世に生れ落ちる前から始まっていた.母親が使用する銅鏡の裏に刻まれた「五子登科」は,男児五人の官吏登用を祈願する霊符のシンボルであった.県試,府試,院試という3つの学校試験を経て,科試,郷試,挙人覆試,会試,会試覆試,殿試,朝考の7つの科挙試験に合格し,ようやく正式な進士となる.隋朝の文帝時代に発足した科挙制度の目的は,世襲的な貴族政治を制圧し,士農工商を問わず有能な官吏を擁する天子の独裁権力保持にあった.北宋時代は,科挙制度により選抜された文官らが支配階級“士大夫”を形成,門閥貴族を駆逐するほどの勢力を持つようになった.唐代滅亡を導いた「黄巣の乱」の首魁黄巣科挙に挫折した唐代の詩人杜甫.多数の官僚予備軍をストックしておき,必要に応じて中央と地方の官吏を補充する科挙制度で,中央集権の強化を図る.

中国では学問は同時に実践である.実践という意味は家庭内において,また社会に出て,大人として行動する時に恥ずかしからぬ行儀作法を身につけていることが第一に要求されるのである.そこで長上や同輩に対するお辞儀の仕方や敬語の使い方などを,初等教育のうちから先生に教え込まれる.ただ今日から見て物足りないのは,集団生活における社会的な紳士としての訓練がおろそかになっている点であろう

 隋代から清代まで1300年余も続いた官吏任用の試験制度は,世界にも例がなく,民主主義の最先端と考えられたイギリスで官吏任用試験が制定されたのは1870年代,アメリカは1883年のことであった.著者は,宋代以降の官僚制に研究テーマを集約させ,戦時中に東亜研究所の依託により清代の官吏登用制度の研究を行っている.終戦までに編まれた原稿を再編し,簡略化したのが本書(1963年版)である.科挙は,優秀な頭脳をいかに公務に配置するかの一つの究極形であった.普遍的な教育制度を放置しても,進士になる甘味に引き寄せられる国民の欲望に着目し,思惑通りの階層を規定した.世襲をあてにする無能力者を掃討するには役立った科挙制度も,門閥から学歴へのスクリーニングと同様の問題点が横たわっていた.

新興富民階級は争って学問に志すにつれて,彼らを顧客として出版業が大いに隆盛になった.仏教,儒教の経典はもちろんのこと,同時代人の文集,語録,時事評論の文までが出版され,政府でも官報を印刷して配布した.いわばマス・コミュニケーションの時代に入りかけたのである.その結果学問が広大な範囲にまで行きわたることになり,科挙に対する受験生はほとんど全国の各地から集まってくるようになった.政府は自由にこれらの中から優秀な者を選抜して,官僚予備軍を形成することができたのである

 幼少時から学問に専念できる環境があって,及第のための学費(私塾の入門費や文献,文具一式),受験のため首府に出る旅費,宿賃,試験官への謝礼,祝儀,交際費.特に経済的負担について,著者は1964年当時の600万円相当を要すると試算した.物価指数を勘案すれば,おそらく現在の貨幣価値で2,000万円は下らない.そこまで家族・親族に投資できる国民は,経済的基盤を強固にもつ場合に限られたであろう.人々が平等に受験できる制度という建前は,実質的に限定された者にしか合格可能性は開かれていなかったのである.科挙は,根本的に古典の縦横理解,そして詩作の才を専一に磨くことが対策となった.官僚に共通の誇りは,「万般皆下品,惟有読書高官僚」(読書以外はみな賤しい)というわけである.西欧の産業革命の影響を等閑視することに限界を自覚,世界情勢を把握する新知識を得るため,清朝は,義和団事件後に全国的新教育制度を発布.長期の科挙体制に変革を促したのは,20世紀に入ってからのことであった.

 政治と行政の実務力を育成する社会科学のカリキュラム化が,科挙には組み込まれていなかったことが,欧米列強への懸念となって科挙廃止に至る.試験自体,いくらでも難解にすることはできる.しかし,実学でない部分に間隙が生まれた.武官を任用するための「武科挙」という制度も本書では紹介されている.武経七書と呼ばれる『孫子』『呉子』『司馬法』『三略』『李衛公問対』など兵法書に関する学科試験もあるが,弓・馬・剣・槍の技芸,武道芸術,武用芸術など実技試験として実施された.しかし,文官採用の科挙に比べ,武科挙は軽視されていた.理由は単純で,武勲を挙げる軍人と武科挙出身者が純粋な比例関係になかったからだ.つまり,実用に形式は及ばなかった.科挙制度は,きわめて厳格に統制され,守られた形式と様式の選抜制度であった.本書には,その限界が露呈する示唆に満ちている.

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原題: 科挙―中国の試験地獄

著者: 宮崎市定

ISBN: 4121000153

© 1963 中央公論社