▼『生物と無生物のあいだ』福岡伸一

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

 生命とは,実は流れゆく分子の淀みにすぎない!?「生命とは何か」という生命科学最大の問いに,いま分子生物学はどう答えるのか.歴史の闇に沈んだ天才科学者たちの思考を紹介しながら,現在形の生命観を探る.ページをめくる手が止まらない極上の科学ミステリー.分子生物学がたどりついた地平を平易に明かし,目に映る景色がガラリと変わる――.

 と心臓,脳機能の停止を徴候とする「三徴候死」の後でも,毛母細胞は2日ほど生きていて,髪や髭はわずかに伸びる.もっとも,皮膚の水分が蒸発し毛包から押し出されて長く伸びているように見えるということもある.生物の存在は,複雑な現象の上に成り立っている.時間を経る過程で変化する有機物といえば間違いではないだろうが,砂浜で拾うことができる貝殻がかつて生物であったことを疑う人はおらず,同じ場所に転がっている石ころをアニミズムではなく「生命体」と信じる者もいない.生物と無生物の違いをどう見極めるのか,という問いは,生命科学が投げかけ続けた「生命とは何か」という根源的疑問に改めて知見を呈示しようとする試みである.

 分子生物学の開闢をひも解きながら,心象風景を交えて詩的に筆を進めていく.本書のタイトルには,1956年に著された川喜多愛郎『生物と無生物の間』(岩波書店)と同様のテーマに答えようとする意図をもって,同書へのオマージュと挑戦が胚胎されている.川喜多は,黄熱病の研究を通してウイルス学の立場から,ウイルスとは何か,ということを論考した.その一環として,ウイルスは果たして生命体であるのか,生命と非生命の境界線は何か,という生命科学が生物を論じる際に重要な定義とされる内容に踏み込んでいた.詳細は同書に展開されているが,川喜多の暫定的な結論は,生物と無生物の境界線は,常識的に考えられるラインというものが存在しないと見ることが適切であり,物質で組み立てられた秩序と持続性にこそ,生命体の驚異がひそんでいる,というものだった.ウイルスが生命か否かは,「自己複製」するシステムが一般的に生命と考えられていることを鑑みれば,肯定できないのではなかろうかと著者は論じる.

ウイルスは生物と無生物の間をたゆたう何者かである.…中略…ウイルスが細胞に取りついてそのシステムを乗っ取り,自らを増やす様相は,さながら寄生虫とまったくかわるところがない.しかしウイルス粒子単体を眺めれば,それは無機的で,硬質の機械的オブジェにすぎず,そこには生命の律動はない

 ウイルスは,宿主細胞に寄生することでしか自己複製できない.単独では代謝機能すら持たないこの「物質」が,ひとたび適合する細胞に付着すると,猛烈な速度で自己複製を始める.その実体は無機質で幾何学的な「模造」といってよいほど,無個性で全く同じ機能を延々と繰り返す物質である.これをとりあえず生命のカテゴリーに入れてきた分子生物学の学説に,著者は異を唱えているのである.ヒトゲノム計画により,ジャンクといわれる98%近くのゲノム領域で,大昔のウイルスの検出された領域は8%に上った.それだけ人間は多くのウイルスと共存してきた解析結果であり,ウイルスの正体は,何らかの理由で破片となったゲノムであるという説が有力視されているという.

 生命の定義に深く踏み込む視点として,本書には「動的平衡」の概念が提示される.これは,ルドルフ・シェーンハイマー(Rudolf Schoenheimer)がDNA発見から10年も前に提示したモデルである.それを改めて援用するに,生命観の問題を著者なりに考える材料にしている.外界と自己を区別する「膜」をもち,エネルギーを吸収して排泄する「代謝」機能をもち,「自己複製」能力をもつこと.この3点が生命の定義であることを前提に,代謝の持続的変化が生命の本質であるとされる.特に「代謝」に焦点をあて,秩序の維持(無秩序の増大:エントロピーの抑制)が重要な要素であることを述べるが,それは,生命の維持に負のエントロピーを取り込む(=食べるという行為)が不可欠であることを示している.エントロピーが増大し続け最大になったとき,その系や世界は終焉を迎える.すなわち,生命にとっては「死」である.

生きている生命は絶えずエントロピーを増大させつつある.つまり,死の状態を意味するエントロピー最大という危険な状態に近付いている傾向がある.生物がこのような状態に陥らないようにする,すなわち生き続けていくための唯一の方法は,周囲の環境から負のエントロピー=秩序を取り入れることである.実際,生物は常に負のエントロピーを“食べる”ことによって生きている

 興味深いのは,動的平衡に記述される「エントロピー=乱雑さ」とともに,「時間」の観念が作用していることを含めている点だろう.生命を絶やさないために食べるという行為は,平衡状態を維持させるための営みでもある.生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず,生体の状態が一定に保たれる恒常性(ホメオスタシス)にも通じるが,食行為の瞬間は,分子レベルで見れば生命体の均衡状態にあるという.この均衡を阻害するものが一つには時間の経過であり,その不可逆性は一瞬たりともエントロピーと恒常性の停滞を許していない.秩序を守るためには変化し続けなければならず,著者は「秩序を守り続けるために絶え間なく壊されなければならない」と簡潔に述べる.

 生命を操作的に,機械的に扱うことへの懸念が考察される本書の後半部は,宗教者の信仰心にも通じる慎ましさがある.人の手が思うがまま,生命のダイナミズムを操作することは,不遜な試みなのだろうか.第14章で膵臓細胞にある消化酵素をめぐるタンパク質の研究実験の失敗は,それを結論付けるというよりも,研究者として「考え続ける」必要性を見出している点で秀逸.GP2が膵臓の細胞膜のダイナミズムに寄与していると仮説を立てた著者の研究グループは,GP2を司る遺伝子を“壊した”(ノックアウト)マウスの実験を行った.その波及効果の予測は,GP2を作り出すことができないマウスの宿命として,一方では実験の当然の帰結として,膜に異常があふれているはずだった.顕微鏡でノックアウト・マウス膵臓の切片を覗いてみると,細胞にはどこにも異常は認められなかった――マウスはまったく正常だったのである.仮説の瑕疵の検証,実験方法の過失を検討したが,見当たらない.マウスの内部の何かが,欠損された遺伝子の働きを補っていたとしか考えられない.それが何かはいまもって分からないままなのである.

 少年期にジャン・アンリ・ファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre)に憧れ,今西錦司のような動物行動学者に感銘を受けてきた著者が,過去の知見や理論のエビデンスを積み重ね,分子機械としての生命観に疑義を呈し,センス・オブ・ワンダーを唱える.それは,生命科学研究の倫理的な予見である.

生命という名の動的な平衡は,それ自体,いずれの瞬間でも危ういまでのバランスを取りつつ,同時に時間軸の上を一方向にたどりながら折りたたまれている.それが動的な平衡の謂いである.それは決して逆戻りのできない営みであり,同時に,どの瞬間でもすでに完成された仕組みなのである

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原題: 生物と無生物のあいだ

著者: 福岡伸一

ISBN: 4061498916

© 2007 講談社