▼『完全なるチェス』フランク・ブレイディー

完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯

 二十年にもわたって姿を消していたチェス世界チャンピオンは往年のライバルと対戦すると,ふたたび消息を絶った.クイーンを捨て駒とする大胆華麗な「世紀の一局」を十三歳で達成.冷戦下,国家の威信をかけてソ連を破り,世界の頂点へ.激しい奇行,表舞台からの失踪,そしてホームレス寸前の日々.アメリカの神童は,なぜ狂気の淵へと転落したのか.少年時代から親交を結んできた著者が,手紙,未発表の自伝,KGBやFBIのファイルを発掘して描いた空前絶後の評伝――.

 歳でチェスを習いはじめ,15歳でグランドマスターの称号を得たボビー・フィッシャー(Bobby Fischer)は,冷戦下の1972年,レイキャビクで開かれた世界選手権でソ連のボリス・スパスキー(Борис Васильевич Спасский)を破って世界王者に輝く.国家が全面的に後押しするソ連の独壇場であったチェス界に,彗星のごとく現れた孤高の天才に対して,当時のソ連は極秘の研究所プロジェクトで過去の対局を分析していた.スパスキーの腰掛けに思考を乱すチップが埋め込まれていたことをソ連当局は主張し,結局その椅子には「レントゲン診断」がなされ,バラバラに分解された.

 ニクソン政権からも「知の代理戦争」の支援を受けた王者フィッシャーは,空前のチェスブームを巻き起こし,それから異常な振舞いをエスカレートさせるようになる.ユダヤ系でありながら反ユダヤ主義にのめりこみ,カルト宗教を妄信した.防衛戦のルール変更を主張し,受け入れられないとみるや王座を放棄.20年にわたり行方をくらまし,1992年に突然チェス界にカムバックすると,ボスニア紛争からセルビア経済制裁を行っていた最中のサラエボで,対局したスパスキーを難なく撃破した.アメリカ政府の警告を無視したサラエボ対局により,亡命者となったフィッシャーは,日本の成田空港に突如姿を現し,拘束されて世界を驚かせた後,市民権を得ていたアイスランドで2008年に客死している.

 フィッシャーは,優れた終盤(エンドゲーム)の技術をもっていたという.ルーク,ナイト,ポーンに対するルーク,ビショップ,ポーンのテクニカルな戦術.13歳で強豪ドナルド・バーン (Donald Byrne)を破った「世紀の一局」でフィッシャーが見せたのは,あえてクイーンを捨て駒とする鮮やかな奇手コンビネーション.栴檀は二葉より匂うというが,まさに神童だった.彼はチェスの専門書を何千冊も読破し,最良の部分を記憶し,実際の盤面に再現することが可能だった.

ボビー・フィッシャーを賞賛するのも軽蔑するのも自由だが――読んでもらえばわかるように,賞賛と軽蔑を同時にするのも簡単だ――彼が問題を抱える人間だった一方で,知への情熱を持つ真摯で偉大な芸術家でもあったことを,この物語が証明することを願っている

 少年時代に独学した『モーフィの対局集』で会得したという3つの原則――すばやい駒の展開,盤中央のマスを占めること,縦横斜めの列を開ける可動性――を基礎戦術とする戦い方を生涯のスタイルとしていたという.本書は,フィッシャーと長年の交流を持った著者しか知りえず,手紙,未発表の自伝,KGBやFBIの文書も資料としている.天才の万華鏡のようなパーソナリティの中から,栄光を極める中に苦しむ孤独な魂にスポットをあて,その狂気の淵に近づこうとする労作である.

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Title: END GAME

Author: Frank Brady

ISBN: 9784163760407

© 2013 文藝春秋