▼『けものたちは故郷をめざす』安部公房

けものたちは故郷をめざす (新潮文庫)

 ソ連軍が侵攻し,国府八路軍が跳梁する敗戦前夜の満州.敵か味方か,国籍さえも判然とせぬ男とともに,久木久三は南をめざす.氷雪に閉ざされた満州からの逃走は困難を極めた.日本という故郷から根を断ち切られ,抗いがたい政治の渦に巻き込まれた人間にとっての“自由"とは何なのか?牧歌的神話は地に堕ち,峻厳たる現実が裸形の姿を顕現する.人間の生の尊厳を描ききった傑作長編――.

 後,花田清輝らが主催した「夜の会」に参加,コミュニズムに接近し,アバンギャルド芸術を志向した安部公房は,人間社会の閉鎖性と不条理を描いた作品で知られている.その超現実的で前衛的なモチーフは,フランツ・カフカ(Franz Kafka),ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Francisco Isidoro Luis Borges Acevedo)の影響が色濃い.彼は幼少期を満州奉天(現在の瀋陽)で過ごし,そこで敗戦を迎えた.

 関東軍の主力部隊が本土防衛のために撤退し,数百万の日本人が置去りにされた状況で,氷雪に閉ざされた満州からの決死の逃避行を試みる少年の物語を描いている.少年にとっての祖国日本は,憧れと失望の対象であり,その憧憬は脳裏を走り,瞬時に散った.「虫になって地図の上をさまよう夢」「夜になると取り残されたものの焦燥が夢になって現れる」といった表現から,閉塞感を迷宮的なテクストに昇華する実存主義的なシュールレアリスムの手法がすでに現れている.

富士山,日本三景,海にかこまれた,緑色の微笑の島……風は柔らかで,小鳥が鳴き,魚がおよいでいる……秋になると,林の中で,木の葉がふり,そのあとに陽がかがやいて,赤い実が色づく……勤勉なる大地,勤勉なる人々……

 瀋陽の日本人居留区で拒絶された少年は,日本人密輸業者に拾われ,生きる手段もなくなりながらも,日本の土を踏む妄想にとらわれる――「けものになって,吠えながら,手の皮がむけて血がにじむにもかまわずに」.生への渇望を続け,彼は自己を疑い続ける.比喩と倒錯を駆使したドグマ,弁証法的な思考を軸に共同体への否定の論理に裏打ちされた観念が少年を支える.

……こうしておれは一生,塀の外ばかりをうろついていなければならないのだろうか?……塀の外では人間は孤独で,猿のように歯をむきだしていなければ生きられない……けもののようにしか,生きることができないのだ……荒野の中を迷いつづけていなければならないのだ……

 本書は,満洲を舞台にした唯一の長篇として書かれた.ただし,実体験とはかけ離れたものであり,自分は私小説を書かないと公房は公言していた.敗戦のために家を追われ,奉天市内を転々としながら引き揚げ船にて帰国した翌1947年,引き揚げ体験のイメージに基づく詩集を,謄写版印刷により自費出版している.ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke)やマルティン・ハイデッガーMartin Heidegger)の影響を受けた詩の数々は,10年後に本書で暴露的に描かれた異常体験,辺境,境界,故郷喪失といった公房の文学的変奏が芽吹く先触れとなっていた.

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原題: けものたちは故郷をめざす

著者: 安部公房

ISBN: 4101121036

© 1970 新潮社