| ナチスのユダヤ人虐殺を筆頭に，組織に属する人はその組織の命令とあらば，通常は考えられない残酷なことをやってしまう．権威に服従する際の人間の心理を科学的に検証するために，前代未聞の実験が行われた．通称，アイヒマン実験‥‥本書は世界を震撼させたその衝撃の実験報告である．心理学史上に輝く名著，新訳決定版――． |
ナチスドイツ帝国保安本部秘密国家警察でユダヤ人撲滅作戦の責任者を務めたアドルフ・アイヒマン（Karl Adolf Eichmann）は，1960年ブエノスアイレスでイスラエル特務機関によって逮捕され，エルサレムで裁判ののち処刑された．偽名「リカルド・クレメント」を使い，ブエノスアイレスの自動車工場主任を務めていたアイヒマンが逮捕される決め手は，妻との結婚記念日を祝う花束を花屋で購入したことで，その日がアイヒマン夫婦の結婚記念日と一致していたことであった．法廷でのアイヒマンの様子と評決の経緯についてまとめたハンナ・アーレント（Hannah Arendt）の「イェルサレムのアイヒマン - 悪の陳腐さについての報告」が，1963年『ニューヨーカー』誌に掲載された直後から，アーレントはユダヤ人社会から厳しく非難される．「怪物的な絶対悪」と見なされるべきアイヒマンは，アーレントの見解では紋切り型の官僚用語をくりかえす凡庸な男，「思考力の欠落した存在」だった．
権威に服従する際の人間の心理を科学的に検証するために，本書の服従実験〈アイヒマン実験〉が行われたのは，アイヒマン裁判の1年後であった．「体罰と学習効果の測定」で80名が被験者として参加し，隣室にいる生徒役（サクラ）が答えを間違えるたび，15ボルトから450ボルトの電流を流すよう，白衣の"権威者（雇用者）"が被験者に命じる．段階に応じて，電流は徐々に強められると被験者に信じ込ませているが，この装置は疑似装置であり，生徒役が演技を見せるに過ぎない．この実験をさまざまな状況で行ったが，61～66％の範囲の被験者が致死レベル450ボルトのスイッチを「実行」した．この結果を，スタンレー・ミルグラム（Stanley Milgram）は，「権威に服従する行動傾向」は特別な民族性や善意の欠如ではなく，自己の責任や判断力を放棄してしまう関係性での性向である，と結論づけた．
わたしは「悪の陳腐さ」というアーレントの発想が，想像もつかないほど真実に近いと結論せざるを得ない．被害者に電撃を与えた一般人は，義務感――被験者としての自分の役目についての認識――に従ってそれを行っただけだ．ことさら攻撃的な性向のためにそうしたのではない
小心で家族思いの役人タイプの男アイヒマンが，大量殺人の実行計画責任者を務めることができたのは，彼もまた平凡で矮小な人間のひとりであったことを示唆する結果である．むろんアイヒマン一個の問題を超えて，この実験は人間全般の善意やモラルと対立する主旨を提示したことにほかならず，激しい批判にさらされた．しかし，一般に自明と信じられている道徳的指針に反するものとして，ミルグラムの分析を攻撃するならば，実験結果を公正に判断しないことになる．被験者はありふれた職業の平凡な人々であったにもかかわらず，66%が生徒役の命を危険にさらし――それは演技であったが――，さらに33%が繰り返し最高レベルの電撃を流し続けたのである．その理由を具体的に，ミルグラムは「権威に服従した人間」とは，その行為を自己判断ではなく，他人の願望を実行するエージェント（代理人）として遂行する非自律的な状態と考え，「エージェント状態」と呼ぶ．つまり，服従の本質は，権威に従うことによって生じる"主体性の欠如"である．
被験者は，報酬が発生する業務として実験に協力しており，イェール大学の研究者という権威者からの要求あるいは指示を「正当な指令」と受け取り，遂行していく傾向が顕著であった．これが研究室の内部であろうと，会社，学校，家族関係などそれぞれのコミュニティで再生産的に起きていることは疑う余地がなく，人間の本性を善悪で論じる限り，残虐な行為すら可能にする動機づけは輾転反側して意味をなさない．そのような動機は，指令や命令の正しさではなく，権威による主従関係を受け入れ「思考力の欠如」に身をゆだねることで正当化されるためである．反道徳的なこの社会実験の教訓としては，服従というものは形成のさせかた次第で変化を見せるということだろうか．前向きな態度で強制がない限りにおいて，服従は協力的な雰囲気をもつことがあるが，逆に強制やペナルティで服従させる場合には，恐怖の性向が動機化されるからである．
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Title: OBEDIENCE TO AUTHORITY
Author: Stanley Milgram
ISBN: 9784309463698
© 2012 河出書房新社
