▼『蒼き狼』井上靖

蒼き狼 (新潮文庫)

 遊牧民の一部族の首長の子として生れた鉄木真(テムジン)=成吉思汗(チンギスカン)は,他民族と激しい闘争をくり返しながら,やがて全蒙古を統一し,ヨーロッパにまで及ぶ遠征を企てる.六十五歳で没するまで,ひたすら敵を求め,侵略と掠奪を続けた彼のあくなき征服欲はどこから来るのか?アジアの生んだ一代の英雄が史上空前の大帝国を築き上げるまでの波瀾に満ちた生涯を描く雄編――.

 ンゴル人の歴史と文学において,蒼い狼と白い雌鹿の神話は重要な位置を占めている.伝承神話によれば,蒙古草原の先祖であるバタチカンは,蒼い狼と白い雌鹿の神聖な交わりから誕生した.これはモンゴル族の起源を示す重要な要素であり,その後の歴史においても大きな影響を与えている.モンゴル人は幼少期から馬に親しむことが求められ,3歳で馬に乗り,7歳で馬上の弓術を修練する.この文化的な伝統は,モンゴルの遊牧生活の一環として息づいている.

 モンゴル帝国の始祖であるチンギス・カン(Чингис хаан)の出生についての伝承も興味深い.バタチカンの子孫ドブン=メルゲンの娶ったアラン・ゴアが金色の人の放つ光を受胎,その子孫がテムジン――後のチンギス・カン――となる神話的な要素が絡んでいる.モンゴルにおける起源神話であり,部族や国家の結束を象徴するものだ.チンギス・カンの生涯は,彼の征服欲や剛腕だけでなく,彼の生まれついた血脈にまつわる苦悩も含んでいる.

上天より命ありて生まれたる蒼き狼ありき.その妻なる惨白き牝鹿ありき.大いなる湖を渡りて来ぬ.オノン川の源なるブルカン嶽に営盤して生まれたるバタチカンありき

 彼の出生は略奪によるものであり,自らがバタチカンの系統を継ぐものであることを主張し続けなければならなかった.蒙古草原の民は,血統に陰りがあってはならないと大王は考えたはずだ.本書は,チンギス・カンの生涯を「蒼き狼」として象徴化し,彼の苦悩や血脈への執着を描写している.この作品は史実ともう一方で創作の要素を組み合わせ,大岡昇平との論争を通じて,史実と創作の狭間で揺れ動く歴史的な描写が浮き彫りにされている.これらの論争は,歴史と文学が交わり合い,新しい洞察や物語を生み出す過程であり,その影響は後の井上文学にも通じている.

 『敦煌』『天平の甍』に見られた事実と虚構の「文学的融合」は,一つの時代を象徴するものであったが,その後の作品では史実をより尊重した筆致に転換している.どちらも魅力的であり,史実と創作の両面が著者のたしかな表現力を豊かに伝える.モンゴルの歴史と文学は,起源神話や英雄の生涯を通じて独自のアイデンティティを形成し,歴史的な事実と文学的な表現が交錯する中で多様性を示しているものだ.これらの融合は,モンゴル文化の豊かな遺産の活写に資するもので,その価値は時を経ても変わることはない.

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原題: 青き狼

著者: 井上靖

ISBN: 4101063133

© 1964 新潮社