私たちは,絶滅が危惧される動物や虐待される動物に胸を痛め,動物を大事にするのはよいことだ,と信じています.しかし,そうした考えの起源は意外に新しいものです.誰もが子どもの頃に手にした『シートン動物記』の著者,テレビ番組の取材中にヒグマに襲われて死去した写真家,そして和歌山県太地町の伝統的なイルカ漁を糾弾する映画―三つの事例の向こう側に控える時代背景,交錯する思惑,政治的意図,イデオロギーを詳細に追求していく本書は,私たちの常識を心地よく覆します.気鋭の著者が書き上げた読者への挑戦状――. |
動物の福祉または権利に焦点を当てる議論は,人間以外の動物に対する道徳的な位置づけに関する言説である.映画「ザ・コーヴ」(2009)は,高度な知的生命体と見なすイルカを対象にした"処刑場"の大掛かりな盗撮と科学的根拠の不足に基づくデータの羅列を通じて,野蛮な国家を非難することを目的とする醜悪なエンターテインメントだった.動物保護の議論は,自己を高めるための階層的な欲望と動物との結びつき,現実を歪めた映像や「賢明」な制作者による視聴者の誤導など,多様な要素が複雑に絡み合って主張される.
過激な破壊活動を伴うエコ・テロリストらが追い求めるのは絶滅を危惧される動物の個体数が実際に回復するといった現実的かつ具体的な成果ではない.保護活動の成果があがったと支持者に実感させるような分かりやすいパフォーマンスを実践することで,そのパフォーマンスを目撃した支持者が受け取る心理的充足感こそが重要なのである
文学研究において自国の文学史を優越視し,独自性を強調することが行き詰まりを招く中,19世紀後半に成立した比較文学が新たな視点を提供し,異なる文学を比較する手法が取り入れられた.比較文学の理解には「越境」と「境界」の概念がキーワードとなり,異なる文学や文化を比較する際に新たな理解が生まれる可能性が示唆される.著者は無知だろうが,同時期にはカール・マルクス(Karl Marx)が「土地所有についてのマルクスの2つの演説の記録」(1869年)で動物も土地に対する自然権を有しているとの興味深い見解を述べており,その権利がどのような形態で実現されるべきかを論じていた.
環境保護運動の実践的な成果が不足し,記号化・物語化された結果が示唆されつつも,動物表象や言説を通じて大きな価値観が形成されていく.表象と現実が相互に影響を与える中,環境保護運動は大衆の欲望に応える商品として消費され,その中で「自然」と「科学」の対立が当時のアメリカの教育思想にも影響を及ぼしていたことが本書には指摘されている.狩猟の代替手段としてのカメラ撮影が自然写真による自然保護意識の啓蒙に貢献した一方で,科学的記述を尊重するナチュラリストからの批判がネイチャーフェイカーズ論争を引き起こし,アメリカの自然回帰運動につながっていったのである.
アリストテレス(Aristotelēs)が提唱した「ポリス的動物」の概念では,人間は動物にはない言語(ロゴス)を持ち,その言語的共同により国家を形成し,「存在」を獲得して人間らしさが実現すると考えられていた.相手の価値観を理解し尊重することが,対立を解消する鍵である.しかし,その実現は困難を極める.動物保護の時代区分や環境保護活動と反捕鯨言説の単純化に関する提示は説得力に欠けるものの,それぞれの動物表象作品が置かれていた社会的・文化的背景,特に19世紀末以降の英米圏の動物観や自然観の比較に関する著者の関心が示唆されている.
++++++++++++++++++++++++++++++
原題: 快楽としての動物保護―『シートン動物記』から『ザ・コーヴ』へ
著者: 信岡朝子
ISBN: 978-4-06-521259-2
© 2020 講談社