▼『神の火』高村薫

神の火(上) (新潮文庫)

 原発技術者だったかつて,極秘情報をソヴィエトに流していた島田.謀略の日々に訣別し,全てを捨て平穏な日々を選んだ彼は,己れをスパイに仕立てた男と再会した時から,幼馴染みの日野と共に,謎に包まれた原発襲撃プラン〈トロイ計画〉を巡る,苛烈な諜報戦に巻き込まれることになった‥‥.国際政治の激流に翻弄される男達の熱いドラマ――.

 本の原子力発電技術は,その安全性面において世界最高峰と評されてきた.原発電力は,国内の総発電電力量の約3割を占め,電力供給の不可欠な一翼を担っていた.原発を舞台にした物語を描こうとした著者は,その舞台背景を徹底的に調査し,その知識の深さと広がりに電力会社関係者ですら驚嘆した.

 かつて日本原子力研究所で働いていた島田浩二は,一流の技術者であったが,機密情報をソビエトに提供していた.彼は現在,謀略の世界とは距離を置き,平穏な生活を築いている.島田はスパイとしての過去に引き込んだ江口彰彦,幼馴染みの日野草介,そしてソビエト密入国者である高塚良と再会し,彼らとの交流から原発襲撃プラン「トロイ計画」に不本意ながら巻き込まれていく.

 人間はプロメテウスの憐れみにより「火」を手に入れた.これは神々の知恵を盗み取る行為であり,怒ったゼウスはプロメテウスに永劫の苦難を与え,人間には愚かな女パンドラを通じて多くの災厄をもたらした.原子炉はまさに神の火であり,その憤怒の業火はテロや人災に対抗するために人間に課せられたものであった.

 著者の小説は非常に緻密で破綻がなく,読みにくいという欠点があるが,これはディテールを徹底的に描き,本筋を巧妙に枝葉に隠蔽し,後半に急激な展開を見せるための手法である.物語の中で情念を燃やす男たちの内面は,虚無的で心に空洞を抱えるかのように描かれていく.安易な感情移入を許さない一方で,何をも突き放すような徹底主義が痺れる.

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原題: 神の火

著者: 高村薫

ISBN: 4101347123, 4101347131

© 1995 新潮社