「芸術の使命は自然を模写することではなくこれを表現することにある」という信念をいだいて一つの作品に十年の精進をささげた老画家が,限りなき理想と限りある人間の力量との隔絶に絶望し,ついに心血を注いだ画布を焼きすてて自殺する経緯を描いた「知られざる傑作」をはじめ『人間喜劇』からえりすぐった6つの短篇を収める――. |
表題作は,オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac)の生きた19世紀, 宮廷画家の写実主義に疑いを投げかける短篇.1820年代は暗黒小説の模倣とさんざん酷評され,出版業の失敗と巨額の負債を抱えて再出発したバルザックは,ベルニー夫人(Mme de Berny)の物心両面にわたる支援の下,普遍的な人間心理を洞察するリアリズム文学を切り拓く.
「知られざる傑作」は,雑誌『アルティスト』や小説集『哲学的研究』に収められ,フランス社会のあらゆる階層の人物が登場する約90編の小説「人間喜劇」に繰り入れられた.その小説群は,風俗研究・哲学研究・分析研究の三部構成をとった.10年の歳月を傾けて畢生の大作を完成させようとした老画家フレンホーフェルが描いた「美女」は,《美しき諍い女》と名付けられ,2人の若い芸術家が鑑賞を許された.
そこには人間の感情や理性を凌駕した結実があった.しかし,フレンホーフェルの信念となる核心は,客観的には判別できない.老画家は絵を焼き捨て,自決を選ぶ.芸術に身を捧げた人間ですら到達できない境地を,芸術家であるがゆえに感得してしまうという絶望と悲劇.
芸術の使命は自然を模写することではない,自然を表現することだ.君はいやしい筆耕ではない,詩人なんだ.彫刻家はその手を正確に写しとることはしないが,その動きと生命を,君に彫り上げてみせるだろう.われわれは事物の精神を,魂を,特徴をつかまえなくてはならない
芸術によって人間が表現すべき本質に,通俗的な見識など冒涜に過ぎないマージナル(限界)をバルザックは訴えたのである.フレンホーフェルのアトリエがあったとされたのは,パリのグランゾーギュスタン街.「知られざる傑作」の挿画を依頼されたパブロ・ピカソ(Pablo Picasso)は,美のイデアに魅了されたフレンホーフェルに強く共感し,自らグランゾーギュスタン街にアトリエを構え,傑作《ゲルニカ》を製作したという.
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Title: LE CHEF-Ⅾ'OEUVRE INCONNU
Author: Honoré de Balzac
ISBN: 4003252918
© 1965 岩波書店