▼『青春の蹉跌』石川達三

青春の蹉跌 (新潮文庫)

 生きることは闘いだ.他人はみな敵だ.平和なんてありはしない.人を押しのけ,奪い,人生の勝利者となるのだ.貧しさゆえに充たされぬ野望をもって社会に挑戦し,挫折した法律学生江藤賢一郎.成績抜群でありながら専攻以外は無知に等しく,人格的道徳的に未発達きわまるという,あまりにも現代的な頭脳を持った青年の悲劇を,鋭敏な時代感覚に捉え,新生面を開いた問題作――.

 跌は,必然からもたらされる.大抵の失敗は,誠意をもってその後に対応をすれば,補遺することが可能である.法律学徒の江藤賢一郎は,「知は力」と述べたフランシス・ベーコン(Francis Bacon)や,単純な真理からすべての真理を演算的に演繹しようとしたゴットフリート・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)の立場を履き違えて理解した合理主義者.江藤は,東西の科学者から人生を参看することはなかったが,小さなテーブルを囲んで何時間も議論をする法学部生仲間とともに,理屈と観念に酔って政治革命に熱弁を奮う.

 荒々しい資本主義を切り抜ける「武器」に,法律というものがあると江藤はとらえていた.旧司法試験の短答式試験,論文試験,そして口述試験.すべてを突破できたならば,エスタブリッシュメントとして輝かしい未来が彼を待っている.逆玉の輿を狙う江藤にとって,社会階層移動は人脈と自己の能力でなし得るものと疑わない.生存闘争に権威と資本をプラスすれば,人生で享受する利益を最大にすることができる.江藤の打算を打ち砕くのは,家庭教師時代,気紛れに性欲の捌け口としていた教え子の妊娠であった.

 成績抜群,しかし,専攻以外は無知であり,人格的人道的にも未発達.法曹への道が約束された人間とは思えぬほど短絡的な計画で江藤の脆さが露呈する.目的達成へのあらゆる資源活用を,「手段」と割り切っていたと自認する法学の徒も,人間性を踏み外す陥穽を避ける術を持たなかった.息子の女性問題に気を揉んでいた母は,「誠実であれ」と江藤に語っていた.人生を絶対に成功させたいと滾る野心と,軽挙妄動は,蹉跌というにはあまりに重い事態を人生に引き起こしてしまった.そして,自分を打ち負かしたことも知らず,これからも悠然と社会で過ごすであろう見知らぬ男.

 過酷で無残なテストを通らなければ,社会のエリートとして選び出されることはない――司法試験すら突破できた男の敗北を喫した心境を,完膚なきまでに冷徹に描く.竜車に向かう蟷螂の斧を,せせら笑っていた青年が未来を捨て去った行為.彼は咆哮して悔やむ.未熟な狡猾さが通用しなかったゆえの悔恨には,贖罪の意識はまるでない.モラリストと法理は別次元の潤色なのだ.司法試験の論文試験で,江藤が最も準備し得意としたのは,死刑廃止論と存続論を比較する刑事政策の論題だった.

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原題: 青春の蹉跌

著者: 石川達三

ISBN: 4101015228

© 1971 新潮社