▼『優生学と人間社会』米本昌平,松原洋子〔他〕

優生学と人間社会 (講談社現代新書)

 歴史の真実から,現代に優生思想を問い直す優生学は過去のタブーか.ナチズム=優生学だったのか.福祉国家北欧や戦後日本の優生思想とは.新しい優生学とは.遺伝子技術の時代を考えるための必読の書――.

 見の明をもつ一部の人々に引きずられる大衆.その構図が崩れぬ限り,疑似科学を拝する人々が再生産されていくのも,自然の理というほかはない.1920-1930年代の多くの遺伝学者がソ連で活動を制限されたのは,ロシア共産党から「ブルジョア観念論」というレッテルを貼られたためであった.科学論を装った「まがいもの」が政治体制に結びついたとき,優生思想と抹殺が引き起こされていく.キリスト教ファンダメンタリストたちの反進化論(創造科学)にも同じことがいえ,ラインのESP実験,シンクレアの透視実験,アポロ計画の月面着陸陰謀論相対性理論の完全否定,主観的な広告文句が羅列されたホメオパシー理論――根拠,論理,定理のリテラシーを高める必要性を促されるものばかり.これをマーティン・ガードナー(Martin Gardner)は『奇妙な論理』で揶揄してみせた.もっとも,「優生学=極右の学問」という教条的ドグマは表向きには制圧されてきた.だがドグマは「浄化」されていないことを本書は示す.

 社会的ダーウィニズムを標榜する勢力と結びつくフランシス・ゴルトン(Francis Galton)の思想「優生学」の「定義,展望,目的」は,1901年の人類学会,また第一回イギリス社会学会でも肯定的評価を受けている.本書がドイツ,北欧,フランス,そして日本の優生政策の歴史を追う中で,繰り返し指摘する事実は,20世紀初期,優生政策は社会主義自由主義の立場から強力に推進されたという経緯である.福祉国家の理論化とイデオロギーを研鑽したと喧伝される北欧の積極的な優生思想は,断種法の制定,不妊手術の立法化に見ることができる.また社会的生存権憲法に制定したワイマール共和国体制で,優生政策は活発化した.民主主義の基盤が速く成立した北欧諸国では,優生思想に反対する立場(カトリックの影響が弱いルター派国教会)が主流で,しかし政治勢力社会民主主義が強い.

 福祉国家の充実の度合いは,保険原理と扶助原理の止揚機能を備えた制度がいかに整備されているかで把握することができる.児童福祉を重視した家族政策を提言し,人口問題の危機に対処することを論じたスウェーデンのミュルダール夫妻(Karl Gunnar Myrdal & Alva Reimer Myrdal)は,今日でも「成熟した福祉国家」を構想した科学者と認知されている.その業績は,福祉国家の発展につれて望ましくない子供の問題が深刻化するゆえに,変質(退化)が高度に進んだ人間たちの増殖を回避する不妊手術が必要,と訴える論旨と結びついたものである.福祉の充実は優生政策による犠牲とのトレード・オフでなければならなかった.このような優生学の批判的「再発見」は,一般論の域に封印された「ナチズムによる悲劇の歴史」に拘泥する限り,見出されるものではない.問題は,そこで切り捨てられたものは何であったかということだ.

 福祉国家は,女性の「中絶」「倫理」をプロ-チョイス(Pro-Choice)とプロ-ライフ(Pro-Life)の葛藤問題として,いかに対処してきたのか.プロライフ運動およびウーマンリブのリプロダクティブ・ライツの陰で,福祉コストの削減という暗黙裡のうちに葬られてきた生命は,優生学功利主義的効果にして犠牲といえよう.稚拙な遺伝理論や人体測定学を超越し,自己決定による選択的中絶,体外受精卵の遺伝子診断,生殖細胞遺伝子治療などが技術的進歩としてわれわれの前に出現することは避けられない.それを「英知」とするためには,21世紀を生命科学の世紀と見据え,20世紀の優生学史の俯瞰的解釈と論証をもって,ポストモダニズムに対置しなければならないだろう.ただし,よかれと思ったことが結果的には荒廃を招く.そのことを戒める最終章の節「体系的懐疑と畏怖の感覚」は,不吉な格言「地獄への道は善意で敷き詰められている」(The road to hell is paved with good intentions)で締めくくられている.

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原題: 優生学と人間社会―生命科学の世紀はどこへ向かうのか

著者: 米本昌平,橳島次郎,松原洋子,市野川容孝

ISBN: 4061495119

© 2000 講談社