▼『楼蘭』井上靖

楼蘭 (新潮文庫)

 大国の漢と匈奴とにはさまれた弱小国楼蘭は,匈奴の劫掠から逃れるために住み慣れたロブ湖畔の城邑から新しい都城に移り,漢の庇護下に入った.新しい国家は鄯善と呼ばれたが,人々は自分たちの故地を忘れたことはなかった.それから数百年を経て,若い武将が祖先の地を奪回しようと計ったが……西域の一オアシス国家の苛烈な運命を描く表題作など,歴史作品を中心に12編を収録――.

 漢代,紀元前二世紀以前からタリム盆地東端,ロプノール湖の北方に存在した「楼蘭」は,シルクロードの要衝として繁栄したオアシス都市国家であった.前176年頃に匈奴に降ったが,匈奴・漢両国の支配下に置かれる地ともなり,後漢,ヤルカンドの干渉を受けた.ロプ・ノール沿岸から西はチャドータに至るまで,東西900キロに及ぶ広大な都市を形成したと考えられる楼蘭は,北魏,吐谷渾,丁零など異民族の侵攻を受け植民活動も進まず,シルクロードの要衝地としても機能を失った.ロプノール湖は枯渇し,都市は砂漠の砂に次第に埋もれていき,7世紀には廃墟と化してやがて人々の記憶からも消失した.

 20世紀初頭,諸遺跡を発掘したスヴェン・ヘディン(Sven Anders Hedin)らの発見した「カローシュティー文書」により,城壁・住居址・漢式鏡・ガンダーラなど西方美術の影響を受けた壁画・青銅器などの発掘が相次ぎ,3世紀から4世紀にかけ最盛期には小乗仏教を奉ずる国王と4,000人の仏僧がいて,西北インドや漢文化の集った故地であったことが判明したのである.表題作は,名著『敦煌』と並び,大国と異民族の狭間で命脈を保った小都市国家を運命の無常に翻弄され擬人化された存在として衰亡を描く叙事詩的な名篇.

 中国史を題材にした文学性の香り高い短篇は,西域都護班超による見事な西域統治,年老いた班超の没後,後任の無能により西域は放棄される(「異域の人」).秦の蒙恬麾下の部将が陰山山麓の集落に立ち寄った村で出会ったカレ族の女を七夜抱いて獣に身を落とす(「狼災記」).500人もの羅刹女が棲みつく宝州に漂着した男たち.羅刹女と二心なく1000日過せば,羅刹女は人間の女に転生できるという(「羅刹女国」).獅子国(セイロン)で虎に嫁いだ王女は男女を産むが,虎の許から去る.怒り狂った虎は人民を襲いはじめる(「僧伽羅国縁起」)など8篇.

 後半の作品は,日本の近世から近現代史の時事から着想を得たもの.本能寺の変で主君織田信長,信忠父子を葬った明智光秀を悩ますのは,明智に騙し討ちされ殲滅された丹波の豪族たちの亡霊(「幽鬼」).会津磐梯山の噴火で奇跡的に生還した地方官吏(「小磐梯」).熊野補陀落寺の代々の住職には,61歳の11月に観音浄土をめざし生きながら海に出て往生を願う渡海上人の慣わしがあった.その時を迎える住職金光坊の恐怖と苦悩(「補陀落渡海記」)など4篇.

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原題: 楼蘭

著者: 井上靖

ISBN: 4101063141

© 1968 新潮社