▼『李香蘭 私の半生』山口淑子,藤原作弥

李香蘭私の半生 (新潮文庫 や 36-1)

 戦前から戦中にかけて女優,歌手として活躍し,「白蘭の歌」「支那の夜」「夜来香」など数々のヒットを飛ばした李香蘭.生粋の日本人であるのにもかかわらず,日中両国の暗い時代の狭間に立たされ,中国人としてデビューした彼女は,いかにして自らの運命を切り開いていったのか.戦後は山口淑子,そして大鷹淑子として生きる一人の女性の半生を通して,昭和の裏面史を描く――.

 本が植民地政策を布いた新京(長春)「満州国」は,1945年8月18日清朝皇帝溥儀の退位宣言をもって消滅し,13年半の短い歴史の幕を閉じた.満州には,国策の映画会社として設立された満州映画協会があった.甘粕正彦率いる満州政府と満鉄が半額ずつ出資した「半官半民」の会社であり,親日派の中国人養成所のような場所であったという.日満親善・五族共和のスローガンのもと,李香蘭満州映画協会初期からスターとして売り出された.

 奉天放送局からデビュー以後,李香蘭は「親日的中国女優」の代名詞のように扱われる.そのイメージの中で自我を確立せざるを得なかった“山口淑子”.「支那の夜」(1940),「白蘭の歌」(1939)出演を「民族の恥」と罵られ,一方では日本の内地で人気は高まっていく.北京官話を中国人同様に操れる日本人女性が,政策的に作り出された「親日」の桎梏で縛られていた数奇の運.傀儡国家を体現するような彼女の芸能生活に,歌舞伎の「両顔月姿絵」にみる双面の哀切さがある.

 漢民族朝鮮民族ではない山口淑子李香蘭に仕立て上げられたのは,中国語映画の製作と,日本を含む外国映画の輸入配給権を独占していた満州映画協会が,日中の宥和と強制の両立という独善を欲したためである.上海や香港で製作される作品を主流としていた映画事情からして,抗日要素が満州の人心を刺激するのは避けたい.文化の発信地を新たに創造しようとした政府の取組みは,「東洋一」と称された撮影所――100坪ほどの面積のステージ6棟――の建造に顕れている.

 1945年8月の敗戦とともに満映理事長甘粕は服毒自殺を遂げ,その年の10月には中国共産党が直ちに接収し東北電影公司とした.李香蘭は中華民國政府から売国奴(漢奸)の疑いで軍事裁判にかけられるが,満州生まれの生粋の日本人ということが証明され,無罪,国外追放が言い渡される.1946年3月末,引揚船のデッキから上海の港を眺めていると,ラジオから歌謡曲が流れていることに彼女は気づいた.それは自分の歌う「夜來香」だったという.

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原題: 李香蘭 私の半生

著者: 山口淑子藤原作弥

ISBN: 4101186111

© 1990 新潮社