▼『大いなる遺産』チャールズ・ディケンズ

大いなる遺産(上) (新潮文庫)

 貧しい鍛冶屋のジョーに養われて育った少年ピップは,クリスマス・イヴの晩,寂しい墓地で脱獄囚の男と出会う.脅されて足枷を切るヤスリと食物を家から盗んで与えるピップ.その恐ろしい記憶は彼の脳裏からいつまでも消えなかった.ある日彼は,謎の人物から莫大な遺産を相続することになりロンドンへ赴く.優しかったジョーの記憶も,いつか過去のものとなっていくが――.

 働者階級と貴族階級の対立ではなく,貴族に背丈を合わせようとするスノビズムの悲哀が扱われる.貧しい鍛冶屋ジョーの養子となった少年ピップは,富豪の老婆ミス・ハビシャムの養女エステラに,否応なく惹きつけられる.高慢にして冷酷なエステラは,ピップを翻弄した.しかしエステラの美しさは,貧しい出自であるピップの羞恥心を刺激しながら,彼女に見合う「紳士」に昇格して結ばれたい,と強烈な欲望を喚起する.卑下すべきは,鍛冶屋や靴屋といった労働者階級の浅ましさ.転がり込む謎の莫大な「遺産」によって,ロンドンで紳士的嗜みを身につけたピップが,養父ジョーに対し忘恩の徒と成り果てるのは,彼なりに整合性の取れた行為となる.

 たとえば友人ハーバートと密な友情を結び,エステラへの愛をピップが希求し続けるのは,彼自身がきわめて人間的な感性の持ち主であるからに他ならない.スノビズムに毒された人間のヒューマニティの緊張関係が,本書の主題である.イギリスにおける新救貧法体制を憎み,大人の付属物としか看做されていなかった存在「児童」の目を通じて,チャールズ・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens)は多くの作品を著した.12歳で実家が破産(父の濫費による),靴墨工場で過酷な労働に従事することになったディケンズは,虐待に等しい仕打ちで心身を疲弊させた.マーシャルシー債務者監獄に収監されていた父が釈放されたのは,ディケンズの祖母方の遺産によってであった.

 ヴィクトリア朝の代表作家と評される成功を収めても,数奇な運命を楽天的に,また強靭な生命力で切り拓く人物を描き続けた.小説には,自伝的要素の強い『オリバー・ツイスト』『デイヴィッド・コパフィールド』など,狂気の所業をとる「大人」と,幼少期の苦難を克服する「子ども」を対照的に布置したパターンが多い.本書はさらに,ピップとエステラに各社会階級の申し子の位置づけを与え,無慈悲で冷血なエステラにはない「財産」をピップが持ち合わせていることを浮き彫りにしていく.若かりし頃,恋に手酷く破れたハビシャムは,男性全般を憎み,復讐のため,美貌の少女エステラを引き取り男性を籠絡する存在に仕立て上げる.

 成長したエステラから冷たく拒絶され,ハビシャムは狼狽する.それは,人格形成の重要な時期に,仁慈や憐憫を否定する価値観を植えつけた結果であった.一方,ピップに巨額の遺産を相続した人物は,幼いピップに恐怖と羨望を体感させ,成長とともにピップに新世界を開いた者だった.奇しくも,エステラの後見人ハビシャムと同様に,ピップにも後見人がいたことが明らかになるのである.運命が流転するなかで,確たる「財産」「遺産」が手中に残るとすれば,おそらくそれは唯物の存在ではない.精神の実在が何を基盤とし,支柱とするかを,遠大で詳細な人間描写が重層的に奏でる.楽天的な結末を多くの作品で示したディケンズだが,本書では苦く切実な余韻を与えるものである.

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Title: GREAT EXPECTATIONS

Author: Charles Dickens

ISBN: 9784102030011, 9784102030028

© 1997 新潮社