▼『若き日の思い出』武者小路実篤

若き日の思い出 (新潮文庫 む 1-11)

 幼い時に父を失い,母の手一つで育てられた野島厚行は,療養のためK海岸へ赴く.そこで出会ったのは,学生時代の友人・宮津とその妹の正子であった.内向的な野島と違い,宮津は快活で頭脳明晰,その上,財力にも恵まれていた.正子を一目見かけてから好意を抱く野島だが――.

 ルストイニズムに影響を受けた後,武者小路実篤は東洋的楽天思想に基づき人間の善性を追求し,その過程で清風のような明るさを創作に吹き込むことに成功した.軍国主義が台頭する時代にあっても,人間性の尊さを信じ続けた姿勢は,自伝的要素を反映しながら登場人物の無垢を徹底して描写した点に表れている.武者小路自身が「一番多くの人に愛読されていい」と考えていたこの作品は,予定調和的な展開が続くため,驚きや緊張感に乏しい.

人生と言うものは実際,無尽蔵の宝庫のようなものです.どの宝庫に入っても,宝がありすぎるのです.その宝に夢中になりすぎて自分の生命の事を忘れてしまうのです.その宝は自分をよく生かすために必要なので,それ以外の宝には目もくれないという覚悟が大事なのですが,私達はつい宝ものに目がくらんで,自分の一生と言うことは考えないのです

 もともと『母の面影』という題で陸輸新報に連載されており,戦中戦後を通して全103回にわたり掲載されたものが本書の基盤となっている.連載が始まった時,武者小路は還暦を過ぎていたという事実に驚きを禁じ得ない.作品全体に漂う生命力と爽やかさから「老い」を感じることができないからである.武者小路の創作活動は,その年齢に関わらず若々しさとエネルギーに満ち溢れていた.

 筆致は,年齢を超越した人間の善性と純愛を描き出しており,その点において時代や読者層を超えて広く愛される理由が見出せる.トルストイの影響を受けながらも,東洋的な楽天思想を取り入れることで独自の作風を築き上げ,まさに清風のような存在感を持つ作家として文学史に刻まれている.時代背景や個人的経験を超えた普遍的なメッセージを含みつつ,作品が持つ無垢さと明るさは,読者にとって心の清涼剤となり,そのメッセージは今なお褪せることはないだろう.

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原題: 若き日の思い出

著者: 武者小路実篤

ISBN: 4101057117

© 1957 新潮社