▼『くれない』佐多稲子

くれない(新潮文庫)

 プロレタリア運動に参加する作者自身の生活に起った,運動の解体や,夫の入獄と転向,といった事件に取材.仕事を持つ妻とその夫とが当面する問題を,深く追究したもので,互いに愛情と理解をもち新生活の建設に努めているはずの夫婦が,なお家庭生活にまつわる因襲や習慣に,矛盾した深い苦悩をなめねばならず,家庭崩壊の寸前にまで陥る経緯を,妻たる明子の立場から描いた力作――.

 多稲子の文学作品は,個人的経験と社会の諸問題の複雑な交差点に位置している.戦前の共産党入党と戦後の離党は,彼女の思想とその成熟の一端を明らかにしている.本作は,極貧の中で生きる人々の内面を描いたプロレタリア文学の伝統とは一線を画し,むしろ彼女自身の結婚生活や離婚の体験を反映している.

 窪川鶴次郎との結婚生活は,佐多にとって個人的な苦悩と闘いの場であった.彼女は,プロレタリア文学の理想と日常生活の現実との間で板挟みになり,結婚生活の中で矛盾や対立が露呈することになった.窪川からの文学的な示唆が,佐多の文学的声価を形成する一因であったと言える.

 妻である佐多が文学的声価を最初に得たことが,後に夫婦の関係に火種を生じさせた.この過程で,佐多は共産主義イデオロギーと個人的な生活感情を混同することなく,自らの文学的な表現を追求した.日本プロレタリア作家同盟婦人委員としての活動は,社会的な問題に対する熱い関心を持っていたことを示している.

わたしたちはこの十年間をお互いに好く暮らして來たとおもふのよ.二人ともここまで成長したといふことはさう言へるでせう.勿論二人の努力であつたとおもふわ.それはずゐ分ひどい努力だつたとおもふの.それがね,ここまで來たとき,二人が一緒に暮らしてゆけない矛盾をつくつてゐたんだとおもふと,そのことでは,私の詰まつてゐる気持ちは,どうにも抜け様がないの

 佐多は,婦人民主クラブの創設に携わり,長年にわたってその活動を支え,委員長を務めた.社会活動は,個人の内面と社会の複雑な相互作用を反映しており,彼女の人生と文学の一貫した軌跡を描き出している.家庭崩壊に陥る夫婦の生活感情を共産主義イデオロギーに結びつけて読むことに,さほど意味はないだろう.

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原題: くれない

著者: 佐多稲子

ISBN: 4101082014

© 1952 新潮社