あのバブル絶頂時,そしてその崩壊,いずれのときも意外なほどに物価は動かなかった.それはなぜか?お菓子がどんどん小さくなっている……なぜ企業は値上げを避けるのか?インフレもデフレも気分次第!?物価は「作る」ものだった?経済というものの核心に迫るための最重要キーである,物価という概念――. |
バブル絶頂期,そして崩壊後,日本の物価は表面的には驚くほど安定していた.しかし,「安定」は本当に健全だったのか.この疑問に答えるには,物価がどのように形成され,制御されるかという経済の根本的な構造を理解しなければならない.本書は,物価の仕組みを丁寧に解き明かし,現代経済を理解するための入門書である.物価は,ただの数字の集まりではなく,社会の価値観,消費者心理,そして政策の影響が複雑に絡み合って形成される.1985年の「プラザ合意」により急激な円高が起こったことは,日本のバブル期に多大な影響を与えた.この合意をきっかけに,円の価値は対ドルで劇的に上昇し,企業が急速な資産増加と輸出競争力の低下に直面した.結果として,日本は内需主導の経済成長にシフトし,地価や株価が急騰したが,消費者物価は比較的安定していた.この不思議な現象は,物価の安定が必ずしも健全な経済を意味しないことを示している.
バブル崩壊後の「失われた10年」を経て,日本経済は病的な安定とも言えるデフレに陥った.このデフレの時代には,企業がステルス値上げとも呼ばれる戦略を用いた.日用品や食料品の分野で,価格は据え置かれるが内容量が減少するケースが増加した.具体的には,日本の代表的な即席ラーメンのパッケージが小型化され,1990年代には100グラムあったラーメンが,現在では80グラム以下にまで減少している.このような減量の背景には,消費者が値上げに敏感である日本特有の文化がある.この文化は,戦後の高度経済成長期に培われた物価上昇への不安とも関係があると言われており,企業は心理的な抵抗を避けるため,減量や質の変更でコストを調整する傾向が強い.物価の停滞を引き起こしたもう一つの重要な要因は,中央銀行や政府の政策的役割である.日本銀行はインフレやデフレといった極端な物価変動を避けるため,量的緩和やゼロ金利政策を試みてきた.2001年に始まった量的緩和政策は,世界初のマネタリーベース・ターゲット方式で,理論上はデフレ克服に向けた画期的な試みだった.
この政策が期待通りに物価上昇を引き起こすことはなく,日本経済は依然として低成長に甘んじている.こうした試行錯誤の背景には,ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes)が指摘したように,経済政策の効果が現れるまでの時間差があり,予測通りの成果を得る難しさがある.失われた10年の日本経済は,世界中の経済学者が研究対象とし,アメリカでもリーマン・ショック後に「日本化(Japanification)」という言葉が使われるほど注目を集めた.物価の変動を巡っては,国内だけでなく,世界経済の影響も少なからず関わっている.2008年のリーマン・ショックや,2010年代に入ってからの中国経済の成長とその鈍化は,輸出依存度の高い日本経済に直接的な影響を与えた.特に,中国からの安価な製品が市場に流入し,国内の製造業は価格競争にさらされることとなった.その結果,企業はさらなるコスト削減を余儀なくされ,国内の物価上昇が一層抑制される形になった.このように,物価は単なる国内要因だけでなく,グローバルな経済動向にも左右される複雑な存在である.
経済学の本質が「生きた学問」であることも忘れてはならない.経済学者たちは,政府や中央銀行が行う政策の結果を研究し,それらの教訓をもとに理論を発展させてきた.20世紀を代表する経済学者ケインズが「長期的には我々は皆死んでいる」と述べたように,即効性のある政策が求められる場合も多い.日本経済においても,デフレや物価の停滞が続く中,こうしたケインズの問題意識が再び注目されている.本書は,こうした理論と実践の試行錯誤の過程をわかりやすく解説し,物価がもたらす経済の仕組みを一般読者に提示している.物価が安定しているように見えても,それが必ずしも経済全体にとって良い状況とは限らない.たとえば,長引くデフレ下で企業はコスト削減を余儀なくされ,それが労働者の賃金に影響を与え,さらに購買力が低下するという負のスパイラルが生まれる.1990年代以降,日本では「名ばかり正社員」が増加し,正社員でありながら非正規に近い待遇を受ける労働者が増えたことで,物価の低迷は社会全体に広がる影響をもたらしている.こうした賃金抑制として,日本の平均年収は1990年代からほとんど変わっていない一方,他国は軒並み上昇しているのは事実である.
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原題: 物価とは何か
著者: 渡辺努
ISBN: 4065267145
© 2022 講談社