▼『兼好法師』小川剛生

兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実 (中公新書)

 兼好は鎌倉時代後期に京都・吉田神社神職である卜部家に生まれた.六位蔵人・左兵衛佐となり朝廷に仕えた後,出家して「徒然草」を著す.この,現在広く知られる彼の出自や経歴は,兼好没後に捏造されたものである.著者は同時代史料をつぶさに調べ,鎌倉,京都,伊勢に残る足跡を辿りながら,「徒然草」の再解釈を試みる.無位無官のまま,自らの才知で中世社会を渡り歩いた「都市の隠者」の正体を明らかにする――.

 承によれば,吉田兼好は晩年,伊賀の国の草庵で過ごしたと伝えられている.その終焉の地については木曽恵那山麓岐阜県中津川)や長泉寺(京都市右京)など複数の伝承が存在し,墓所も各地に建てられている.兼好が生み出した『徒然草』は,悲観とともに有職故実を人生の教訓として融合させた作品であり,全244段にわたり,人生論,世相観,四季,自然,博物,小話の挿入,仏教的な説話,冷笑や道徳観に基づく見聞,評論,趣味論,処世術などが,淡々とした連歌のような形で織り交ぜられている.その筆致は,美意識によって柔軟かつ高雅で,長短不ぞろいながらも含蓄に富んでいる.

 兼好は1308年(延慶元)の天皇の死により宮廷を離れ,1313年(正和2)頃に出家したとされる.しかし,持明院統との対立から出世の機会を断たれ,出家後は比叡山横川や京都で南朝北朝の対立する社会の動きを傍観者として過ごした.本書で興味深い仮説として提示されるのは,兼好の伝記が後世の吉田兼俱によって「捏造」された可能性である.吉田神社宮司家が家格向上のために史料をでっち上げ,兼好の経歴に関する話が捏造されたという指摘である.

兼好の遁世は延慶2(1309)年から正和2(1313)年までとなる.その間,応長元(1311)年春には京都の東山に住んでいたことが確実である.恐らくそれ以前に出家したと見られる.出家後の兼好はやはり『遁世者・遁世人』とすべきであろう.遁世は山林などに閑居して仏道修行に努め,特定の寺院にさえ属さない生き方である.しかし中世社会における遁世者は,身分秩序のくびきから脱することで,権門に出入りし,あるいは市井に立ち交じり,時々の用を弁じていた存在であった

 系図や官歴にはいくつも疑わしい点があり,兼俱はこれを用いて吉田家の名声を高めるための虚構を造り上げたというのである.また,兼好の出家前は金沢氏に仕えており,若き日の彼は右筆として活動し,京都と鎌倉を行き来していた.彼の没年ははっきりしないものの,晩年には足利幕府の武家と交流し,今川貞世とも親交があったとされている.鎌倉幕府滅亡後は室町幕府の要人として重宝され,四つ目の勅撰集への入集に執着した兼好は,身分や礼式にとらわれない非公式の領域に属し,博識と文才,実務力を兼ね備えていた.

都市に住んで,十分な経済的な基盤を確保し…中略…公武僧に幅広く交際し,新旧の権力者にも対応できる人脈を持つからこそ可能な生き方であった.それゆえの自省の言を徒然草に聞くべきである

 『徒然草』の中には,「心は縁にひかれて移るものなれば,閑ならでは道は行じがたし」という言葉も見られるが,彼自身は足利尊氏の執事である高師直のもとにも出入りしていたという.この時代の激動的な社会変動において,兼好は傍観者として自己の真実に従って生きただろう.しかし,後世の吉田兼俱は兼好の生涯を自身の系図に取り込み,家格を上昇させ,朝廷での官位昇進に利用しようとした疑いが濃厚である.本書は,有職故実の教養が古代の文化や制度に対する深い敬意を抱くと同時に,現代においても模範とすべき「遁世者」の真実を探る興味深い著作である.

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原題: 兼好法師徒然草に記されなかった真実

著者: 小川剛生

ISBN: 978-4-12-102463-3

© 2017 中央公論新社