▼『警察庁長官を撃った男』鹿島圭介

警察庁長官を撃った男 (新潮文庫)

 1995年3月,日本中を震撼した国松孝次警察庁長官狙撃事件.特別捜査本部を主導する警視庁公安部がオウム犯行説に固執する一方,刑事部は中村泰なる老スナイパーから詳細な自供を得ていた.だが,特捜本部は中村逮捕に踏み切らず,事件は時効を迎えてしまう.警察内部の出世とメンツをかけた暗闘や,中村の詳細な証言内容など極秘捜査の深層を抉るノンフィクション――.

 神淡路大震災(1/17),地下鉄サリン事件(3/20)と戦後最悪の天災と人災に見舞われた弩級の災厄年だった.1995年3月30日に発生した国松孝次警察庁長官狙撃事件は,黙示録的な混沌を狙った狂信集団オウム真理教信者による「教祖の意思のもと組織的,計画的に敢行したテロ」として公安部長は断定し,計画犯や実行犯として何人も教団関係者が浮上した.しかし,証拠不十分で起訴しきれず2010年に時効を迎えている.教団の数々の組織的犯行が詳らかになっていく中,本件の関与については厳として否定し続けた関係者(後継団体アレフ)は,2014年に名誉毀損成立で賠償金判決を最高裁で勝ち取っている.

 刑事部では人員を割くことが困難で,警視庁公安部の主導で捜査が進められた.それが蹉跌の始まりだった.2002年11月,身長160cmの72歳の老人がUFJ銀行押切支店で現金輸送車襲撃を企て,愛知県警に逮捕されていた.1956年東京で職務質問をされたとき,警官を拳銃で射殺した罪で無期懲役の判決を受け,1976年に仮出所後,足取り不明となっていた元極左活動家中村泰である.空白期間に「特別義勇隊」の特殊工作員として働き,米国で武器を買い集め,日本へ密輸していた中村は,他人名義の貸金庫とアジトに自動式拳銃と142発の弾薬,スミス&ウェッソン回転式拳銃,偽造パスポートと他人名義の運転免許証を所有.数冊のスクラップブックに膨大な警察長官狙撃事件の記事やコピーが収められ,フロッピーには長官狙撃事件に関する詩編が30作ほど記録されていた.

 真犯人しか知りえない事実の裏付けを警視庁の刑事部が取り,警察幹部も「奴以外,真犯人はあり得ない.200%真犯人だ」とまで断言したにもかかわらず,中村は長官狙撃容疑で逮捕・起訴されていない.凶器は38口径のアメリカ・コルト社製リボルバー(回転式拳銃)パイソンであったことは確定している.その珍しい拳銃を入手,殺傷能力の高いホローポイント弾を巧みに扱い,悪天候で20メートル離れた場所から精密にターゲットを狙撃した技術力.本書では中村犯行説を全面的に展開する.目撃証言にやや不可解な点はあるものの,客観的には中村による実行が強く疑われる.しかし,単独犯行であるか不明な点は残されている.

 警察内部で公安部と刑事部が政治闘争に躍起となり,いかなる物証が存在しようとも,オウム犯行説を覆すことを拒絶した公安部が,シラを切る形で2010年時効まで粘ったというプロットは魅力的ではある.だが現実にそれほど雌雄がわかれるものだろうか.橘孝三郎が創設した右翼団体「愛郷塾」に入塾後,左翼に転じて崇高な義憤により警察庁長官狙撃という単独犯シナリオは作為的なリードの感じがする.当の中村本人は「長官狙撃事件については,否定も肯定もしない.だからこそ,客観的な分析ができる」と核心――動機と組織的ネットワーク――を遠ざける発言のみで口をつぐんでいる.公訴時効を経たいま,稀代の銃器マニアで狙撃手としての自己顕示を果たした彼から,さらなる自白を引き出すことは難しいだろう.

† 追 記 †

 毎日新聞スクープ(2023年3月20日)によれば,中村の逃走を手助けしたとされる元自衛官への独自取材を行い,900ページに及ぶ捜査資料を入手した.元自衛官が彼から受取った手紙には,パーキンソン病白内障が進行し,満足に字が書けない状況であると記されていた.

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原題: 警察庁長官を撃った男

著者: 鹿島圭介

ISBN: 9784101362816

© 2012 新潮社