▼『残像に口紅を』筒井康隆

残像に口紅を (中公文庫 つ 6-14)

 「あ」が使えなくなると,「愛」も「あなた」も消えてしまった.世界からひとつ,またひとつと,ことばが消えてゆく.愛するものを失うことは,とても哀しい‥‥言語が消滅するなかで,執筆し,飲食し,講演し,交情する小説家を描き,その後の著者自身の断筆状況を予感させる,究極の実験的長篇小説――.

 界が軋みをたてて,削り取られていく.文学者が万象を語るのに「言葉」を操るものならば,五十音中の日本語の音(正確には清音濁音などを合わせて六十六音)が1音ずつ失われていく世界では,どのような語りが許されるだろうか.平均3.5ページごとに章が切り替わり,その都度,音声による記号としての「音」が1つずつ消え去る."あ"が消えれば,"あ"から始まる言葉とそれを含む言葉とともに,実在したオブジェクトと概念すべてが消滅する.その後の世界では空から降ってくる水を"あめ"と表現することは許されず,妻は夫に"あなた"と呼びかけることはできなくなり,子どもは母を"おかあさん"と呼ぶことが不可能になる.

 登場人物は,失われた音があったこと――かつて使えていた概念――をかろうじて認識することは許されており,その喪失感が「残像」となって物哀しさを呼び起こす.等差数列的に,この法則を厳守するメタフィクショナルな世界観において,日本語独特の語彙,音韻体系,文法にいたる概念が1つずつ破壊される.そのことにより,言い換えや別の形容詞で物語を叙述していく手法「リポグラム」を用いた実験小説である.後半になるほど残存する言葉が減り続け,言い換えそのものが困難になる.最後に残った音節は,"ん".これすら消滅したとき,主人公は世界を語るすべを失い,音声記号によって説明されていたあらゆる実体と概念が消失し,極限までミクロ化した世界は,ついには音もなく蒸発するのである.

 筒井康隆は本書以降,ワープロを使って小説を執筆することにした.使えなくなったキーを,打つことのないように画びょうをキーボードに設置し,本書の完成までには指が血だらけになったという.さらに,同時期には『文学部唯野教授』を連載しており,ストレスで胃穿孔が2つできて入院した.筒井にSF作家と評価を与えた文壇を尻目に,文学表現にこだわる連中を本書ではあざ笑う.『文学部唯野教授』では,文壇と大学という異質な社会の規範を,抱腹絶倒のパロディとカリカチュアによって刺した.1972年発表の『無人警察』の描写をめぐり,てんかん患者への差別表現が吊し上げられ,1990年代には断筆宣言とその解除を通過することになるが,文学表現に対する制約への嫌悪は,いうまでもなく1990年代以前から作品に篭めていたのである.

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原題: 残像に口紅を

著者: 筒井康隆

ISBN: 4122022878

© 1995 中央公論社