▼『音と言葉』ヴィルヘルム・フルトヴェングラー

音と言葉 (新潮文庫)

 両大戦にはさまれた苦難の時代を断固たる勇気をもって生きぬき,ベルリン・フィルやヴィーン・フィルなどを指揮した数々の名演奏によって今や神話的存在にまでなったフルトヴェングラー.本書は,この20世紀前半最大の指揮者が,作曲家を論じ,演奏法を説き,音楽の心について語った感銘深い評論13編を収める.巨匠の音楽に対する愛の深さ,信念の厳しさは読む者の心を強くゆさぶる――.

 ルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini)と並び,20世紀を代表する巨匠ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)の論文・講演集.没後の1956年にドイツのブロックハウス社から刊行されている.また同年には,遺稿集『音楽ノート』もブロックハウス社から出ている.

「すべて偉大なものは単純である」これは芸術家のための箴言である,というのは,何よりまずその「単純」という言葉が,「全体」という概念を前提としているからです.ここで言う「単純」さとは,「すべてを見通して」「突如としてこの一挙に」正しくその「全体」をつかむ,という意味です.この意味における「全体」とは,決してただそれ自体のために分離した世界の一部分である,というだけではありません.一部分には違いないが,それはこの世界をその「全様態」において反映する部分なのです

 ブレスラウやミュンヘンで練習指揮者として経験を積んだフルトヴェングラーは,ライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団ならびにベルリン・フィルハーモニーの指揮者に就任,ドイツの指導的な指揮者として名声を高める.ニューヨーク・フィルハーモニックやウィーン・フリルハーモニー,ベルリン国立歌劇場での客演指揮者も経験した.

レコードやラジオを聴くことからはびこることになったあのはき違え歪められた音感,精神を喪失した,ただうわべだけをつくろう単純なきれいさ

 本書に収められた評論において,無調音楽作曲家,新即物主義といわれる芸術運動への批判は,作品の再創造に向けた慧眼による.フルトヴェングラーは,音楽の生命性を称揚する「音楽は共同体体験である」という持論をここに展開し,芸術状況を楽観するかのような通俗的理屈を退ける.徹底した作品解釈が追究する芸術家の言葉は,直観と官能の豊かさが共鳴している.

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Title: TON UND WORT

Author: Wilhelm Furtwängler

ISBN: 4102024018

© 2004 新潮社

■「マイ・インターン」ナンシー・マイヤーズ

マイ・インターン [Blu-ray]

 ジュールズは,家庭を持ちながら何百人もの社員を束ね,ファッションサイトを運営する会社の社長.女性なら誰しもが憧れる華やかな世界に身を置く彼女.仕事と家庭を両立させ,まさに女性の理想像を絵に描いたような人生を送っているかに見えたが彼女には人生最大の試練が待っていた.そんな悩める彼女のアシスタントにやってきたのは,会社の福祉事業として雇用することになった40歳年上の“シニア”インターンのベン.人生経験豊富なベンは,彼女に“最高の助言”をアドバイスする.次第に心を通わせていく2人だが….

 別・国籍などの多様性は,企業業績にプラスの効果を生むと一般に考えられ,個々の「違い」を受け入れ認め合うダイバーシティ & インクルージョンに注目が集まっている.30歳で通販会社を立ち上げた若き女性CEOジュールズは,家庭内では専業主夫(育児担当)に"クラスチェンジ"した夫を顎でこき使い,子どもの日々の成長にも関心を払っていない.生き馬の目を抜く"戦場"で功を遂げてきた彼女は,25人で始めた企業を約1年半で200人を超える規模まで成長させてきた.つまり良妻賢母という観念を頭から否定してかかるタイプの女性で,そんなCEOの雑用係に採用されたのは40歳年上の“シニア”インターンのベン.

 高齢者の就労インセンティブを高め,勤労を促すべきとするワークフェア的理念に便乗してきたように思えた彼の果敢な活躍ぶりは,見ていて胸がすく.誰にでもできる雑用にも嫌な顔ひとつせず,年齢や役職のギャップにも臆せず幅広く社内スタッフと談笑できるだけでなく,――YouTubeFacebookなど若者文化からも――新たなスキルを摂取し与えられた仕事に生かすことを試みるオープンマインドの持ち主なのだ.彼の最大の武器は,長年の人生経験からくる結晶性知能であって,若き成功者ジュールズにはそれが決定的に欠けている.そのエピソードは後半に立て続けにテンポよく描かれるが,ご都合主義な点が目立つのが退屈きわまりない.

 社内と家庭の不測の事態に立ち往生するCEOを諭し,鼓舞し,叱咤激励するベンの姿は,若輩者を教導するメンターそのもの.人生経験の賜物として培われた智慧の前には,若い勢力も到底敵わない.マイ・インターンの主客は,見事に入れ替っていることにジュールズも自覚し謙虚にならざるを得ないのである.ただし,一般に企業内では多様性や包摂性を「持続的成長の原動力」と見なすことが半ば前提化しており,結局は人材多様化・活用による,自社の優位性や競争力を強化するビジョナリーの理解を出ていない.多様性を活かすための土壌がないままにダイバーシティを推進すれば,生産性はむしろ低下を招く.

 年を経れば誰でもベンのような賢さや先見性で若者を導くことが可能なわけではなく,その器を得るまでには資質を磨きぬく必要があるだろう.それは,彼にとっては妻を亡くしてからたしなむ太極拳――力を抜いて体を柔らかく,動作も呼吸と合わせて緩慢に行う健身術――に内包される太極思想を通じた修養が有意義だったかもしれないし,学問でもその他の技芸でもよいのかもしれない.主演2人の明るいキャラクターであまり説教臭さは感じない作品に仕上がっている.

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原題: THE INTERN

監督: ナンシー・マイヤーズ

121分/アメリカ/2015年

© 2015 WARNER BROS.ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC.

▼『塔の思想』マグダ・レヴェツ・アレクサンダー

塔の思想―ヨーロッパ文明の鍵

 本書の課題は,塔というものにこめられた意義,つまりその精神と,表現する内容をきわめることにある.それはバベルの塔アレクサンドリアのファロス灯台など,すべての塔に共通する原則と本質が見出され,適切な実例によって証明される――.

 メソポタミアの神塔"ジッグラト"をモデルにしたと思われるバベルの塔旧約聖書「創世記」)は,ヨーロッパ文明を象徴する鮮烈な塔(Tower)イメージに貢献した.石の代わりに煉瓦を,漆喰の代わりにアスファルト(天然)を用いて,天まで届く塔の建設により神への冒涜とそれに対する"罰",意思を分断された人間の救いがたい愚かさ.

 ピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel)がここに題材を求めたことも,ヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck)の秀逸な画《聖バルバラ》――非キリスト教徒の富者ディアスコロスが,意に沿わない求婚者たちから娘バルバラを遠ざけるため,彼女を塔に幽閉した逸話にもとづくドローイング――も,オプティミズムというよりペシミズムに彩られている.

塔はあらゆる他の建築物から,明確に区別されねばならぬ独立の建造物である.それは特別な目的と表現形式をもっている.この目的はきわめて性格的な形で,活気に満ちたしかたで,表現される.しかも,そこにははっきりわかる目的とか必然性があるわけではなく,内在するエネルギー自体が目的なのであり,独特の躍動的精神力自身が芸術形式になっている

 発生的・芸術的・歴史的経過の面で塔をとらえるなら,軍事上の目的(監視,防御)あるいは宗教上の目的(天上世界の希求)といった実際的な機能以前に,永久に不可知――解明をゆるさない不条理な文化装置――としての側面を維持しつつ,トラヤヌスの円柱やエッフェル塔にみられる世俗社会の象徴の役割も担っている.

われわれが広がりの中に生き,その中で,ものを建設すればするほど,そして,共同体のためにはたらき,創造すればするほど,そしてまた,われわれが集団の中へますます解消されていけばいくほど,われわれは,より切実に,創造と人生の中の自由な個人のかけがえのない価値を考えるようになる.その自由を見出すことが困難になるほど,われわれの願いも強くなる.なぜならわれわれは,偉大な個性の持つ精神力こそが――すべてを飲みこんでしまう集団の精神の中でも,けっして解消されない,また解消されることの不可能な――唯一の力であることを,じゅうぶん知っているからである

 いわゆる幅と奥行に対して垂直軸(高さ)の著しく強調された建造物は,縦横なる象徴的解釈をさせずにはおかない魅力と畏怖をたたえる存在といってよいだろうか.本書は,非合理性を内包する建築様式における精神的価値の本質にふれることのできる書物である.

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Title: DER TURM,ALS SYMBOL UND ERLEBNIS

Author: Magda Revesz Alexander

ISBN: 430926171X

© 1992 河出書房新社

▼『表徴の帝国』ロラン・バルト

表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)

 「これはエクリチュールについての本である.日本を使って,わたしが関心を抱くエクリチュールの問題について書いた.日本はわたしに詩的素材を与えてくれたので,それを用いて,表徴についてのわたしの思想を展開したのである」.天ぷら,庭,歌舞伎の女形からパチンコ,学生運動にいたるまで…遠いガラバーニュの国"日本"のさまざまに感嘆しつつも,それらの常識を"零度"に解体,象徴,関係,認識のためのテキストとして読み解き,表現体(エクリチュール)と表徴(シーニュ)についての独自の哲学をあざやかに展開させる――.

 ラン・バルト(Roland Barthes)は,1953年に『零度のエクリチュール』を発表した後,1966年から1968年にフランス文化使節の一員として,何度か来日を果たしている.大絵師・狩野永徳はピーテル・パウルルーベンス(Peter Paul Rubens)を断然凌ぐ,としたのは,ブルーノ・タウト(Bruno Taut)だった.タウトは,鏡面としての日本的美とヨーロッパ的美を照応することで,第一次世界大戦後の表現主義建築運動を補強しようとした.

 バルトの場合には,西洋世界が「意味の帝国」であるのに対し,日本は「表徴(記号)の帝国」と規定している.記号論の立場から日本の印象をまとめた本書では,天ぷら,庭,歌舞伎の女形,すき焼きといった素材で,言語表現の実態<エクリチュール>を展開する.これらの素材は,日本にしかない代わりに,日本以外の場所では異なった素材を容易に見つけだすことができる.

料理人が生きたうなぎをつかまえて、頭に長い錐を刺し、胴をさき、肉をはぎとる。このすみやかで(血なまぐさいというよりも)なまなましい小さな残虐の情景は、やがて《レース細工》となって終る。ザルツブルグの小枝さながらに、天ぷらとなって結晶したうなぎ(または、野菜やエビの断片)は、空虚の小さな塊、すきまの集合体、となってしまう。料理はここで一つの逆説的な夢、純粋にすきまからだけでできている事物という逆説的な夢を、具現するものとなる。この料理の空虚は(しばしば天ぷらは、空気でできた糸毬といわんばかりの球となっている)人間がそれを食べて栄養とするためにつくられているものであるだけに、いっそう挑発的な夢なのだが……

 詩的な題材は,西欧の文化コードが全く通用しない場所であれば,無数に存在している.したがって,日本は「表徴の帝国」としての1つの場に過ぎないが,そのことは,バルトによるモチーフの思索的コレクトという独自性を邪魔してはいない.

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Title: L'EMPIRE DES SIGNES

Author: Roland Barthes

ISBN: 4480083073

© 1996 筑摩書房

■「キングダム 見えざる敵」ピーター・バーグ

キングダム/見えざる敵 [DVD]

 FBI捜査官のロナルド・フルーリは,絶対君主制の王国サウジアラビア“キングダム”で起こった在住アメリカ人を狙ったテロ殺害事件の捜査のため,エリート捜査員3人とともに現地に赴く.しかし彼らに許された時間はたったの一週間.他人を犠牲にしても私腹を肥やそうとする資産家たちや,一筋縄では行かない政治家たち,そして西側諸国を目の敵にしているテロリストなどそれぞれの思惑が複雑に絡み合い,やがて捜査官たちの命もが危険に晒される….

 会派ドラマを撮れば,渋味で圧倒的臨場感を演出してきたマイケル・マン(Michael Mann).しかし,「過去10年間のCNNヘッドライン・ニュースの裏側を見せる映画」と胸を張った発言は,撤回したほうがよいほどご都合主義のアクション作,というのが実際のデキである.サウジアラビア王国は,米国の重要なパートナーであると同時に,絶対君主制で国会は存在せず,要職は王族で占められている事実上の「王国」.莫大な富を生み出す豊富な天然資源・石油は,近代的高層ビルを乱立させるほどの経済力を国にもたらすが,宗教は依然として厳格なイスラム教であり続ける.これらのアンバランスさの上,政治的に介入を図る西欧諸国と,キングダム上層部の駆け引きが,この国の混沌とした事情をさらに複雑化させてきた.

 サウジアラビア・リヤドの外国人居住区で自爆テロ事件が発生.多数の米国人死傷者が出る.事件で同僚を失ったFBI捜査官のフルーリーは現地での捜査を強く主張し,マスコミの手を借りてそれを実現した.一方,サウジではアブドゥル・マリク将軍が国家警察ハイサム軍曹の関与を疑っていた.ガージー大佐に迎えられたフルーリー一隊は,事件現場に直行する.その惨状に愕然とする中….

 米映画雑誌「Variety」は2007年,緊迫する中東情勢を扱った映画が立て続けにアメリカで公開される皮切りに,本作を位置づけ重要視した.9.11以後のアメリカの対テロ政策を存分にアピールする意味でも,本作の立ち位置は明確であった.周辺国にイランとイラクがあり,片時も弱みを見せるわけにはいかないサウジには,映画の製作上,王族サウード家の立場を配慮しなければならない.それ以前に,テロ対策を緩めるわけにはいかないアメリカの立場も最大限,尊重しなければならない.これらの映画製作をめぐる「忖度」により,本作はシンプルな路線しか選びようはなかったと推測する.すなわち,胸のすくようなアクション劇である.

 派手な市街戦と肉弾戦,黒のシボレー・サバーバンとAH-64アパッチの競演は見ごたえがある.石油によって癒着する王国の上層部と王族による搾取.石油利権に触手を伸ばすアメリカはこれを黙認しながらも,サウジ国内の一派が膨大な資金をテロリストに横流ししていることに睨みを利かせなければならない.国民が各国の事情に意味もわからず翻弄され,新世代のテロリストと憎悪を連鎖させていくことは,一面では真実だろう.だが,他国の内政に土足で踏み入った挙句,FBI捜査官全員がほぼ無傷であるのに対し,テロ組織は壊滅させられ,その過程でガージー大佐は命を落とす.表面的には「テロとの戦い」の泥沼化と不毛を問題提起しているように見えるが,その提示の仕方にアンフェアなものを感じさせてしまう.釈然としない感覚の理由は,ここにある.

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原題: THE KINGDOM

監督: ピーター・バーグ

110分/アメリカ/2007年

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