■「老人と海」ジョン・スタージェス

老人と海 [DVD]

 老人はメキシコ湾で少年を伴い,漁師を営んでいた.少年は老人を尊敬し愛していたが,40日間不漁が続いた為に,親のいいつけで別のボートで漁を手伝う事になってしまう.それでも老人は毎日一人で漁に出る.そんなある日,老人は仕掛けた網に信じられない程の重さを感じる.その瞬間,網にかかったカジキと老人の4日間にわたる死闘が始まった….

 4日間獲物を求めてきた老人サンチャゴの心象として顕れるのは,2つの雄々しい獣だった.カジキマグロとの対峙は,厳格な生の駆け引きの中,澎湃として沸きあがる心的イメージによって,自然賛歌と人間賛歌の両義があった.サンチャゴが見る穏やかな夢に登場するのは,勇を誇る百獣の王ライオン.死闘に疲れ果てた老人に厳としてある生命力.その回復が,束の間の安息に託されていく.アーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway)の中篇は,それらの想像力を掻き立てる達意・平明簡潔な文体が見事だった.カリブの亜熱帯ハバナ.そこには,ヘミングウェイがこよなく愛した小さな漁村コヒマルがある.

 ボートが嵐に巻き込まれ,たどり着いたこの漁港で,彼は漁師と海の大物カジキマグロの会話を交わす.想像力を多分に膨らませたヘミングウェイは,コヒマルの浜辺から愛艇ピラール号に乗って,カリブ海を我が物顔に遊泳するカジキマグロに挑んだ.剛毅に漁に備えるサンチャゴだが,長期間の不漁のため鈍った英気が,大捕り物で如実に甦ってくる.その経過を,文学から映画に置き換えて,果たして傑作になりうるかがヘミングウェイも気がかりだった.スペンサー・トレイシー(Spencer Tracy)もまた,自信をもち得なかった.老人が孤独に海で奮闘する映画が,鳴り物入りで集客できるとは思えない.しかし,ドキュメンタリー・タッチで,ナレーションの担当ならとトレイシーはワーナー・ブラザーズと契約を交わす.

 ところが,社はヘミングウェイの原作の忠実な映像化を企図していた.風貌をヘミングウェイに気に入られたこともあって,トレイシーはサンチャゴを演じることになる.当初の監督更迭を経て,ロケーションは亜熱帯の嵐で中断.ワーナー内のスタジオに75万ガロン容量の水槽を準備し,そこで老人とカジキマグロの格闘シーン撮影が開始される.マグロはハリボテを使用したが,カメラ回しのまずさから,生命感は得られていない.さらに,背景のキューバ,ハワイ,コロンビアのカットとの合成も不自然だが,時代を考慮すれば無理もないか.ハバナの漁村の熱気が立ち込めた雰囲気,老人の意気込みの直情にして円熟な味.それらのパフォーマンスは,決して凡庸ではない.

 難点は映画として致命的.対決しているマグロの跳躍場面は,明らかに他のフィルムからの挿入で,リアルさがない.また,心象として重視されるべきもう一つの獣ライオンも,だらけてのびきった姿態を示すだけ.これらには,自然から受けるべき荘厳さが欠け,原作が志向した「大自然への敬意」が失われている.それゆえ,小説で生きたヘミングウェイの描写が断片的にナレーションされようと,上滑りの印象を免れないのである.総じて,優れた文学を的確に映像で表現する難しさを窺わせ,いかに妙を心得るべきかを教えてくれる映画である.

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原題: THE OLD MAN AND THE SEA

監督: ジョン・スタージェス

87分/アメリカ/1958年

© 1958 Leland Hayward Productions,Warner Bros. Pictures

■「きみに読む物語」ニック・カサヴェテス

きみに読む物語 [Blu-ray]

 とある療養施設にひとり暮らす初老の女性.老いてこそいるがたたずまいも美しく過ごしている.しかし,彼女は情熱に溢れた若い時代の想い出をすべて失ってしまっている.そんな彼女のもとへ定期的に通う初老の男.デュークと名乗るその男は,物語を少しずつ読み聞かせている.語られるのは1940年代のアメリカ南部の小さな町の,きらめくような夏の物語….

 愛ブームも,かつての勢いはさすがに衰えたようだ.白血病の少女や韓国のメロドラマ,電車内での出会いを恋愛に発展させようと奮闘したオタクの物語など,一時は食傷気味になるほど,この手の話が巷に溢れた.本作は,ブーム後期に登場し,やはり国内で一部の層に熱狂的に受け入れられた.男女が障害を乗り越え,永遠の愛を獲得する紋切型の物語.老人ホームに入所する老婦人に,足繁く通う老男性が物語の読み聞かせを始める――.

 南部の大都市チャールストンの裕福な家庭に育った17歳のアリーは,家族と一夏を過ごすため,豊かな自然のあるノース・カロライナの町シーブルックへやってきた.地元の材木業の青年ノアは,ある晩アリーを見かけ一目惚れ.強引にデートの約束を取り付け,必死にかき口説く.彼を歯牙にもかけなかったアリーは,ノアの熱意にほだされる形で交際を始めた.若い2人は事あるごとに衝突しながらも,将来を誓い合う.

 2人の交際をアリーの両親は認めず,父母の願い通りアリーはニューヨークの女子大学へ進み,ノアはシーブルックで働き続けるほかはなかった.認知症は,基本的には不可逆性の病である.そのことに甘い幻想を抱かせず,安易に記憶を取り戻させなかったことが良い.思い出は喪っても,好悪の感情は変わらない.恋愛映画としてあまりに王道過ぎるシナリオは,真っ向勝負で男女の愛情の紡ぎ方の理想を恥ずかしげもなく説く.ほとんどの人の身には起こり得ないほどの不滅性.それは,すべての人が潜在的に羨望しているものでもある.

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原題: THE NOTEBOOK

監督: ニック・カサヴェテス

123分/アメリカ/2004年

© 2004 New Line Cinema,Gran Via

▼『ある明治人の記録』石光真人[編]

ある明治人の記録 改版 - 会津人柴五郎の遺書 (中公新書)

 明治維新に際し,朝敵の汚名を着せられた会津藩.降伏後,藩士下北半島の辺地に移封され,寒さと飢えの生活を強いられた.明治三十三年の義和団事件で,その沈着な行動により世界の賞讃を得た柴五郎は,会津藩士の子であり,会津落城に自刃した祖母,母,姉妹を偲びながら,維新の裏面史ともいうべき苦難の少年時代の思い出を遺した.『城下の人』で知られる編著者が,その記録を整理編集し,人とその時代を概観する――.

 辰戦争で薩長と戦って敗れた会津藩は,藩の消滅後再興を認められ陸奥の斗南(現在の青森県東部)に集団移住した旧会津藩士たちは約1万7,000人,石高3万石といわれたが,これは名目で実質は約7,000石で生活は貧窮を極めたという.本書の副題に「会津人柴五郎の遺書」とある.柴は10歳で戊辰戦争に遭い,西軍が城下へなだれ込む直前,母は「男子は生き延びて会津の汚名を天下にそそぐべし」と五郎少年を逃がした.祖母,母,姉妹らは「非戦闘員の女の籠城は兵糧を浪費する」と自刃,屋敷は焼失した.

落城後,俘虜となり,下北半島の火山灰地に移封されてのちは,着のみ着のまま,日々の糧にも窮し,伏するに褥なく,耕すに鍬なく,まこと乞食にも劣る有様にて,草の根を噛み,氷点下二十度の寒風に蓆を張りて生きながらえし辛酸の年月,いつしか歴史の流れに消え失せて,いまは知る人もまれとなれり

 明治新政府の要職や陸海軍の要職には薩長出身者が多く占めた.挙藩流罪という史上類を見ない極刑にあえぐ少年と父は,極寒の斗南で犬の死肉を20日間食い続け,朝敵という汚名におしつぶされながら原野開拓で生き延びるほかなかった.炊いた粥――白米ではなく干した昆布やワカメ――は石のように凍り,履物はなく裸足で過ごす.熱病で40日苦しんでも,敷物などはない.想像を絶する苦難の怨みは,本書の書出し部分「血涙の辞」に篭められている.

 藩の選抜で青森県庁の給仕となったのを機に上京した柴は,旧藩士らを頼り士官学校を経て,軍事参議官,台湾軍司令官などを歴任し,陸軍大将まで昇進.1900年の義和団事件では駐在武官として2か月間のろう城戦を指揮し,適切な采配で,各国から勲章を授与されている.さらに,解放後に占領した北京での略奪を厳しく戒め,現地の保護にも尽力した.本書第1部「遺書」の最後は,竹橋事件の記述で,西南戦争と合わせて「維新に内在せる無理,摩擦,未熟,矛盾」に起因することを鋭く見抜いている.

 陸軍で栄達を遂げた柴は,65歳で退役し晩年は,会津出身者の支援の育英事業に力を注いだ.太平洋戦争の敗戦を告げる玉音放送の1か月後,身辺を整理し自決するが果たせず,その年の12月に世を去った.賊軍の小倅として苦難に耐え陸軍幼年学校でフランス式軍事教練を学び,中国通の陸軍軍人となり勇躍した柴五郎は,東北人のなかでも頑固で朴訥で最も保守的といわれる会津人気質を備えていたように見える.薩長幕閣政府,官僚独善政府を残して終わった明治維新は,東北に西南に深い傷跡を残す「革命」であった.そうした史実の間隙は,このような人物史によって埋めることが部分的に可能になるのであろう.

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原題: ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書

著者: 石光真人[編]

ISBN: 978-4-12-180252-1

© 2017 中央公論新社

▼『明香ちゃんの心臓』鈴木敦秋

明香ちゃんの心臓 東京女子医大病院事件 (講談社文庫)

 医師になることを夢見た12歳の少女が,名門病院の心臓手術で命を落とした.手術のデータは改竄され,両親に真実は伝えられなかった.「よい医療」とは何か.患者側と医療側が互いの溝を埋めるべく歩み寄り,病院改革,医療改革の第一歩を踏み出した,試みと知見の記録.講談社ノンフィクション賞受賞作――.

 が国の大学病院は,本院と分院を併せて163施設と全病院数の1%程度に過ぎないが,医療事故の15%が大学病院で起きている.医療過誤訴訟の鑑定を引き受けている「医療事故調査会」(大阪府八尾市医真会八尾総合病院)は,過去9年間で鑑定が終了した医療事故686件のうち,105件が大学病院での発生だったと発表している.そこでは大学病院での事故の約60%が医療過誤と判定され,さらに686件の医療事故を設立主体別にみると,大学病院のほか,国公立病院や医療センターなどを含めた「基幹病院」での鑑定事例が397件(57.9%)に上った.調査会が医療過誤と判定したのは507件(73.9%)と,過去9年間でほとんど変化がなかったという.

 2001年3月2日,東京女子医大病院附属心臓血圧研究所(心研)で心房中隔欠損症の手術を受けた12歳の少女の死は,心研の隠蔽体質を反映した医師の慢心により,証拠隠滅罪と業務上過失致死罪を争う刑事事件に発展した.施術が「治療」を目的とし,医学上認められた「手段および方法」であり,「患者,保護者,代理人などの承諾」を得て行われた診療過程に過失が発見されない限り,患者の死という不幸な結果が起きても医療行為の不当性を問うことはできない.問題は,医療機関に限らず高度専門職能集団は,情報の非対称性を巧妙に利用して組織的防衛を図ることにある.

 医療機関は,国民の生命を深いレベルで扱うために,その問題が組織特有の閉鎖性と相俟って,潜在性を払拭する難しさを保ちながら先鋭化されうる性質をもっている.2001年の東京女子医大事件は,1999年の横浜市大医学部附属病院で起きた事故(心臓手術予定者と肺手術予定者を取り違えて,過誤となる手術を実施した)で強調されたヒューマンエラーの問題をある意味では「通過」し,医療機関の体質をクローズアップする構図を作り出した.決定的であったのは,少女の手術経過を知ると思われる関係者からの「内部告発文書」である.

 医療関係者が内部告発を遺族に実施し,その全文が世に知られる稀有な事例となったが,そうまでしなければ東京女子医大心研の偽証や捏造を生産する“病巣”は明らかにならなかった.本書は,被害者とその家族の生活暦,手術前後の医療事情を綿密に調査した跡がうかがえ,医療側が一般国民の視点からいかに義憤を覚えるものかを考察している.少女の両親は,被害者連絡会の設置,裁判外紛争解決(ADR)の設置に向け働きかける.しかし遺族の希望は,心研の機能停止や手術責任者の医師生命を断つことではない.

 装置自体に瑕疵があることを強く疑わせる人工心肺装置が全国で用いられ,それが結果的に娘の生命を奪うことになり,医療機関からは納得できるような誠意ある対応がない――「同様の事故を繰り返してはならない」と自らを奮い立たせなければならなかった悲痛な想い.2006年11月,厚生労働省は大学病院に対して6ヶ月間の戒告,カルテを改竄した元講師(2002年に証拠隠滅容疑で逮捕)に対して保険医登録取り消しの処分をそれぞれ下した.この元講師の「外科医を……辞めようと思っています」という言葉に対し,少女の父親は即座に「辞めるな,それでは何の意味もない」と答えている.強硬な対立は建設的な展開から遠ざかるリスクを生む.したがって対話を重んじるべきと説くことは,第三者の立場からは容易である.

勇気を持って撤退する判断力や決断力は,修羅場に遭遇し,それを乗り越えなければ身につかない.有能な心研の外科医をここで葬り去ってよいはずはない

 悲惨な医療過誤の当事者となった時,どのような意思をもって行いを為すか.「開かれた医療」の喧伝とは逆行する実態の解明,組織の隠蔽体質の是正に寄与する「一歩」――「単行本あとがき」で述べられたように――全国七地域で始まった医療関連死の死因究明モデル事業,日本医療機能評価機構における事故報告制度に,「ささやか」ながら認めることができるはずだ.現時点での影響力は微々たるものであるとしても,患者側からすれば未だ濃霧のたちこめる医療界に,不誠実な弥縫策を許さぬ機運を社会へ要請し,社会から医療界への照射を期待するエポック・メイキングとして,本事件は永久に記憶に留められるべきなのだ.

平柳さん,僕はね,東京女子医大病院には,患者さんたちが寄せた期待に応えられなかった責任――社会的責任があると思うんですよ(東間紘:元東京女子医科大学病院院長)

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原題: 明香ちゃんの心臓―東京女子医大病院事件

著者: 鈴木敦秋

ISBN: 9784062767583

© 2010 講談社

■「華麗なる一族」山本薩夫

華麗なる一族 [DVD]

 関西金融界の雄,万俵大介は厳然たる家父長制で一族を取り仕切り,その勢力を広げようと腐心し続けている.しかし,長男の鉄平に対してだけは,その出生の疑惑にこだわりを持ち続けていた.ある日,その鉄平が経営者として致命的なミスを冒してしまう….

 風堂々とした香気に充ちた,211分.まったく間延びせず弛みのない展開は,山崎豊子の原作を見事に捌く山本薩夫の手腕による.70年代,日活と大映が低迷期に入り,黒澤明も一時退くなど,邦画界は斜陽期に突入していた.戦後も四半世紀が経過し,懐古主義と新たな潮流のせめぎ合いにあって,松本清張砂の器』,小松左京日本沈没』,石川達三『青春の蹉跌』などを原作とする映画が盛り上がった.邦画の新たなラインナップとして,優れた小説との協働が燦然と輝いた時代があったのである.

 預金高十位の阪神銀行の頭取・万俵大介率いる万俵財閥.大介には4人の実子がいる.最大傘下企業・阪神特殊鋼の専務を務める長男・鉄平,阪神銀行本店で融資課長の職にある次男・銀平,大蔵省主計局次長・美馬中と政略結婚した長女・一子,見合い結婚を渋る次女・一子.華族の血をひく大介の正妻・寧子は,実務的にはまったくの無能.一方,万俵家の家庭教師兼執事を務める高須相子は,大介の寵愛を受け,妾でありながら万俵家での政治力を恣にしている.

 時下,金融再編の機が到来し,大蔵大臣から「預金高十位以下の銀行は合併の対象」との意向を聞いた大介は,生き残りをかけ,他行との合併を模索し始める.同じ頃,長男の鉄平は,阪神銀行の融資を受け,長年の夢であった自社の高炉建設に着手する.政財界,官僚をも呑み込んだ醜い権謀術数は,キャスティングボートを握るため,因果を無視するほどの権勢欲の応酬を繰り返す.本作のモデルは,阪神銀行神戸銀行,万俵家=神戸の岡崎財閥,帝国製鉄=新日本製鐵,大同銀行=協和銀行であるといわれている.神戸銀行は1973年に太陽銀行と合併し,太陽神戸銀行となったが,後に三井住友銀行に収まった.

 現実に,吸収と合併が繰り返されて金融機関は胎動を続けているのである.「華麗」といいながらも,先代が創立した阪神銀行を全国第10位の都市銀行に押し上げた万俵大介は,生粋の叩き上げであり,毛並みの良さは持っていない.没落したとはいえ公家・嵯峨子爵家と閨閥を築いても,生来的な泥臭さを拭えはしない.山崎豊子の設定したアナグラムを,佐分利信の圧倒的貫禄,京マチ子の爛れた妖艶さ,目黒裕樹と田宮二郎の猛々しい野心などがきっちり実写化した.この作品に関しては,仲代達矢は若干浮いてしまった感がある.

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原題: 華麗なる一族

監督: 山本薩夫

211分/日本/1974年

© 1974 芸苑社