▼『チャップリン自伝』チャールズ・チャップリン

チャップリン自伝 上 ―若き日々 (新潮文庫)

 突然声の出なくなった母の代役として五歳で初舞台を踏み,母の発狂,父の死,貧民院や孤児院を転々とし,ついに地方まわりの一座に拾われて役にありつく……あの滑稽な姿,諷刺と哀愁に満ちたストーリーで,全世界を笑いと涙の渦に巻き込んだ喜劇王チャップリンの生いたちは,読む者を興奮させずにおかない.神話と謎につつまれたその若き日々を,みずからふりかえって描く――.

 ぶだぶのズボン,山高帽,不恰好な靴をはいて,ステッキを振りながらおどけながら歩いていく.その男は滑稽に見えたが,奇抜なメイクと衣装の下に,知的で物静かな瞳があった.生涯で81本の映画に携わり,大半が自作自演だった.エッサネイ時代(1915-1916年)からミューチュアル時代(1916-1917年)の3年間で撮った映画,実に26本.そして,喜劇を演じる内部に,妥協のない美学があった.

 1920年頃,チャールズ・チャップリン(Charles Spencer Chaplin)は女性の易者に運勢を見てもらったことがある.診断の結果は次のようなものだった.まず,大金持ちになる.次に,3回結婚するだろう.そして子どもは3人,寿命は82歳で,気管支肺炎で尽きるだろう.チャップリンは1978年クリスマス・イヴの夜,夫人と子ども7人に看取られて静かに息を引き取った.彼は4回結婚して,子どもを9人設けた.亡くなったのは87歳だった.

 易者の予言は,「大金持ちになる」ということ以外はすべて外れた.この巨万の富を築いた喜劇役者は,晩年,妻や子どもたちとスイスに移り住み,静かな余生を送った.誰にも会いたがらず,多くの手紙や要請にも億劫がったのも,幸福感を彼なりに噛みしめていたからに違いない.レマン湖の湖畔を眺めながら,わが人生を回顧していたチャップリンは,自伝の執筆に取りかかった.1964年に刊行された本書は,世界中でベストセラーになった.けれども,全面的に世間に受け入れられたわけでもなかった.

 世界中の富豪やセレブとの交際を得々として書きすぎている,という批判があった.しかも内容はあまりにきれい過ぎた.それも当然で,世界的な名声を獲得したチャップリンが人生の回顧録として記した本書に,自ら暴露的なことを書くわけがない.デビュー当時のコメディアン仲間や先輩についての記述は,本書にはほとんど出てこない.触れたくない過去なのか,あるいは触れられないのか.人の好奇心は当然,書かれている部分よりも書かれていない部分に集中する.中でも,リタ・グレイ(Lita Grey)との離婚騒動が一言もないのはどういうことかと,人々は想像を巡らせた.

 リタ・グレイは15歳で妊娠し,チャップリンと結婚する.チャップリン邸にはリタの親族,通称「マクマレー一族」が押しかけ,それに我慢ならなくなったチャップリンは,リタともども家から叩き出す.周到なマクマレー一族は,『リタの不満』という怪文書をマスコミを通じて流した.これは,2人の結婚生活を暴露するもので,かつチャップリンの非人道的な行為を非難する悪意に満ちていた.結局,チャップリンは62万5,000ドルの示談金をリタに支払うことになる.当時彼は38歳だったが,結審する頃にはすっかり白髪になってしまっていた.この一件が,どれほど骨身に応えたかは,自伝に一言もないことが何よりも物語っている.

 チャップリンの不遇な少年時代は,チャールズ・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens)『オリバー・ツイスト』を彷彿とさせる.「生涯でも一番長く,そして一番悲しい毎日だった」というランベス救貧院(貧民院)の生活は,惨憺たるものだった.極貧から強度の神経衰弱に陥った母は,精神病院に入院することになった.ただこのことについても,あまり多くは語られてはいない.

 4歳年上の兄シドニーとともに,救貧院で過ごした18ヶ月間は,幼い彼らにとって永遠とも思える時間だった.施設の生活そのものよりも,寂しさと羞恥心に苦しめられたことを本書で語っている.

途中で通り抜ける村々,さてはわたしたちを眺めている村人たちまでが,どんなにたまらなく厭だったことか!わたしたちがみんな貧民院をさす俗語,"ぶた箱"の住人であることを,みんなだれも知っていたのだ

 チャップリンベル・エポックは遠かった.だが,彼は早くから音楽に目覚め,独特のタップを踏むセンスに恵まれていた.そこで,一度は曲芸団の団員になったこともある.しかし,8歳のとき墜落して親指を挫いてからというもの,曲芸師としての将来は閉ざされた.彼に残されたのは,ミュージック・ホールしかなかった.

 当時,桟敷席があるオペラ劇場だけが,ミュージック・ホールではなかった.イギリスのどの場所に行っても,それらしきものはあった.場末の飲み屋,ウェールズの炭鉱,どこにでも.チャップリンはあちこちのミュージック・ホールに顔を出し,1900年には『ギディ・オステンド』でパントマイムによる子犬の役を得た.とても小さな役だったが,『シャーロック・ホームズ』の翻案や『ピーター・パン』の端役で粘り,17歳のとき,兄の手助けもあってキャシーズ・コートと契約を結ぶことに成功した.

 給料は週給で2ポンド10シリング,これは当時のイギリス紳士の月給が5,6ポンドといわれていたから,相当な高給だといえる.チャップリンの金の使い方は,服装と本に贅沢するくらいのものであった――彼は一体,何を濫読していたのか.分かっているのは,ショーペンハウエルニーチェディケンズシェイクスピア,ブレイク,ヤング,医学書や社会経済概論などであった――.父親がアルコールに溺れて他界したことを戒め,自分はまったく酒を飲むことはなかったという.すでに生活の規律を守る清貧の習慣が身についていた.

 チャップリンのあのいでたち,つまり浮浪者の扮装は,『メイベルの窮境』で初めて表現された.その誕生は,まったくの偶然から生まれた.だが,偶然のことを手繰り寄せるのは必然的な成り行きである.しかも彼の場合,喜劇役者として思いもかけないいきさつが,その後の芸風を決定付けた.

 「おい,なんでもいいから,何か喜劇の扮装をしてこい」出資者の1人にこういわれたチャップリンだが,突然そんな要求に応えられるわけもない.だが,彼は思いついた.それがだぶだぶのズボン,ステッキと山高帽,ドタ靴だ.

つまり,この男というのは実に複雑な人間なんですね.浮浪者かと思えば紳士でもある.詩人,夢想家,そして淋しい孤独な男,それでいて,いつもロマンスと冒険ばかり求めている.…中略…そのくせやれることというのは,せいぜい煙草のすいがら拾い,子供のあめ玉をちょろまかす,それくらいのことしかないんです

 この風貌でもって,一躍,インパクトを与える役者人生が始まったことは言うまでもない.それは見る人,共演する人,伝え聞く人,全てにおいてであった.狂人じみたリズムで,全てをぶちこわし,ひっくりかえし,大笑いの渦に巻き込む.昔のオッフェンバッハに近い芸風をチャップリンは踏襲することにした.この当時の彼は,「チャス・チャップリン」と呼ばれていた.いわゆる,滑稽な失敗を笑いの題材にするというスタイルである.

 チャップリンの撮った映画,一緒に仕事をした俳優で,撮影による怪我をした者は1人もいなかったといわれている.あれだけ激しいドタバタ劇を演じているのに,である.チャップリンは,映画は人工の虚構であることを常に意識していた.人の手で作り出すものである以上,俳優に怪我をさせるわけにはいかないし,また避けられないということもないはずだ.安全管理は,製作者側のモラルであると自覚していたのである(ただ一度,自身は撮影中に怪我をしたことはある).

 喜劇を構造的に捉えるようになったのは,1918年の『犬の生活』からだった.場面は,登場人物の失敗の連続が次のシーンにつながり,最終的には全体が全て関連しあうという具合である.場面のつながりは論理的になり,逆にどれほど面白いギャグが浮かんだとしても,論理的な流れをさえぎるようなら,決して使用することはなかったのである.

 このような作品化のスキームが固まって来るにつれ,自分の演じる浮浪者の性格付けにも複雑さが生まれ始めた.本能的な行動様式しかとらなかった浮浪者は,次第に人間的な感情も表現するようになっていく.人の痛みに配慮し,恋をし,喜び,嘆き悲しむ.造形された道化師(アルルカン)は,反体制的な暴力を行使もするが,内面には人間的な悩みや苦しみをもつ,生身の人間であることを主張するようになったのである.彼の卓越した想像力と表現力は,独特のリズムで自在に具体化されていく.その具体的に求めたものは,「ユビキタスな笑い」ということであった.

 ユビキタスな笑いとは何か.それは万人が心から笑えるユーモア,ギャグである.性的なもの,人種差別的なものは,編集ですべて切り捨てる.特定の制約のもとでは,笑いが毒になることをチャップリンは身をもって知っていた.本書で彼が過去の一部を覆い隠し,知識人や教養人との交流を自慢げに書いている,とした批判はあたらないだろう.そのようなスノッブな映画人の作品であるなら,なぜ世界中の映画フリークに愛され,今でも研究が盛んに行われているのか?

 1人でも多くの人を笑わせようとした偉大な喜劇人,とチャップリンは評される.だが,それも彼の本質から離れた見方である.普遍的なユーモアとウィットを理解されるよう,彼は専心してきたように思え,誰が見ても障壁を感じず,映画の世界にのめり込むことができるよう,ただそれに心を砕いてきたのではないかと感慨深く想像できるのである.

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Title: MY AUTOBIOGRAPHY

Author: Charles Chaplin

ISBN: 4102185011;410218502X

© 1981-1992 新潮社

▼『復讐する海』ナサニエル・フィルブリック

復讐する海 捕鯨船エセックス号の悲劇

 捕鯨船エセックス号は怒ったマッコウクジラに沈没させられた.現実のエセックス号の悲劇は,この『白鯨』のクライマックスの後から始まる.捕鯨船から脱出したのは20人,そのうち,生き残ったのはわずかに8人だった.本書は,事件からおよそ180年後,犠牲者と同じナンタケット島に住む歴史家が綿密な調査で明らかにし,全世界を震撼させた問題の書である.全米図書賞受賞作品――.

 ールド・ダートマス歴史協会ニューベッドフォード捕鯨博物館には,《ラッセル・パリントン・パノラマ》という一連の絵があり,そこには捕鯨のプロセスが描かれている.17世紀なかば,ニュー・イングランド地方の入植者が開始した捕鯨は当初セミクジラが対象だったが,次第にマッコウクジラを捕獲する「アメリカ式捕鯨」が中心となる.石油とプラスチックが発見される以前の時代,鯨油は灯油や機械油として供給されるほか,潤滑油,ランプ燃料,乳化剤,洗剤の原料となった.鯨の髭は発条やコイルの主原料ともなり,鯨は1850年頃まで工業資源の中心だったのである.捕鯨の拠点は,アメリ東海岸ニューイングランド沖の小島ナンタケット島であった.

 ハーマン・メルヴィル(Herman Melville)は,捕鯨船員であった青年時代,元1等航海士が書いた手記『捕鯨船エセックス号の驚くべき悲惨な難破の物語』を読んだ.128頁にのぼるその記録は,ナンタケット島初の捕鯨船エセックス号が1820年11月20日――ガラパゴス諸島の西約2800Km,赤道からわずか75Km南において――巨大なマッコウクジラに襲撃され沈没.93日間に及ぶ漂流生活により,乗組員20人中生存者は8人となった経緯が記されていた.ナンタケット島出身の捕鯨船員は,多くが敬虔なクエーカー教徒だった.厳格な克己心と純粋な使命感を抱く彼らが,南太平洋諸島の食人伝説に怯え,諸島を避け,はるか遠い南米大陸を目指した末に飢餓と脱水症状に苦しむ.捕鯨船に乗り込んだ平和主義のクエーカー教徒が,生存の究極の選択として「人肉食=タブー」を破るという皮肉.本書は,船員の宗教上のヒエラルキーを指摘する一方,漂流クルーのなかで黒人の者が真っ先に死亡し,「犠牲」となったことに関し,人種差別的な批判とはいえない観点も論じている.

 メルヴィルは元1等航海士の手記にある体験談を,白い巨鯨に片脚を食い切られた捕鯨船の船長エイハブの狂気,黙示録的暗喩に満ちた衒学然とした海洋文学『白鯨』に投映した.作中「断固たる復讐の意志と底知れぬ悪意が相貌にあらわれている」と表現された巨鯨とエイハブの死闘がそのクライマックスを構成している.だがエセックス号の実話は,マッコウクジラの襲撃以後の生存闘争が本質的主題となっていて暗鬱なのである.体長20メートルを超えるマッコウクジラは現在では目にすることがない.エセックス号を襲った雄のマッコウクジラは,26メートルを超えていたと生き残った船員らは語っている.これは誇張かもしれないが,巨体の雄が乱獲された1820年代以後,マッコウクジラは徐々に「ミニサイズ化」していったことを考えれば,エセックス号事件の時には,26メートル超の巨鯨が実在していたかもしれない.

 生き延びた乗組員のその後の生涯も,本書ではよくリサーチされ述べられている.事件当時28歳だった船長ジョージ・ポラード・Jr(George Pollard Jr.)は,その後も船長として航海にでるが,ハワイ沖で座礁してからは二度と船に乗ることはなかった.最後はナンタケット島の燈台守として生涯を終えている.エセックス号の悲劇を手記にまとめた(ゴーストライターの助けを借りたという)一等航海士オウエン・チェイス(Owen Chase)は,悪夢に終生悩まされ続け,発狂した晩年は自宅に食べ物を隠すようになった.頭痛を訴えすすり泣くことが多くなり,失意のうちに死去した.チェイスの息子も捕鯨船の乗組員となり,父の驚異の手記を携えていた.ある時捕鯨船に同乗した若者に,手記を読ませた.その若者こそ,ハーマン・メルヴィルであった.

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Title: IN THE HEART OF THE SEA

Author: Nathaniel Philbrick

ISBN: 408773403X

© 2003 集英社

■「ストレンジャー・ザン・パラダイス」ジム・ジャームッシュ

ストレンジャー・ザン・パラダイス [Blu-ray]

 ウィリーはニューヨークに10年住んでいる.ハンガリー出身で本名はベラ・モルナー.ある日彼のもとに,クリーブランドに住むおばさんから,16歳のいとこエヴァアメリカでの新しい生活を始めるべくブタペストから来るが,自分が急に入院することになってしまった為,10日間ほど預かってほしいという電話がかかってくる….

 欧圏の民主化運動のうち,ハンガリーの国内改革は飛びぬけて速かった.ブダペストから訪米した16歳の少女エヴァと,従兄弟ウィリーの会話は噛み合わず,ファッションセンスも合わない.同じ出身国の誼も,若い2人にはそれほど親近感を覚えさせるものではなかった.ジム・ジャームッシュ(Jim Jarmusch)はパリ留学中,名匠ヴィム・ヴェンダース(Wim Wenders)の助手を務めた経験がある.

 小津安二郎溝口健二ジャン=リュック・ゴダールJean-Luc Godard)の影響も受けた.ヴェンダースの助手時代,機材を借り余ったフィルムで第一話“The New World”を撮った.これが好評を博し,ミュンヘンのプロデューサーらの資金援助を得て,全三部作を完成させたのが本作である.さしたるエピソードもなく,淡々とした日常の積み重ねは,あえて映画の起伏を抑えている.

 アメリカらしくない風景を旅する東欧の若者,その姿をロング・カットでとらえ続けるカメラ.パラダイスよりも奇妙なのは,雪で埋め尽くされたエリー湖,寒々しいフロリダなどのアメリカ各地の素顔だ.ウィリーが口走る「新しい所に来たのに,何もかもが同じに見える」とは,熱気溢れる場所だけが,人びとの知るアメリカではないのだと主張するかのようだ.この冷めたアメリカ観は,公開当時にスタイリッシュなものとして喧伝された.

 小人閑居して不善をなす.無為に時間を過ごす若者3人は,はっきりいって碌なことを考えつかない.かといって,それが東西のどちらで起居していようとも,さしたる変化を彼らにもたらすとも考えられない.いわば,若さに恵まれた胡乱な怠惰.ぬるい「間」の演出は,20代をアメリカで過ごしたが,邦画とドイツの映画手法に学んだジャームッシュの長編デビュー作の最大特徴となった.

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原題: STRANGER THAN PARADISE

監督: ジム・ジャームッシュ

90分/アメリカ=西ドイツ/1984

© 1984 Cinesthesia Productions,Grokenberger Film Produktion,Zweites Deutsches Fernsehen (ZDF)

■「ルイーズに訪れた恋は…」ディラン・キッド

ルイーズに訪れた恋は… [DVD]

 コロンビア大学の入学選考部で部長を務めるルイーズは,39歳.同じ大学の教授であるピーターと離婚し,現在は独身生活.今は良き友人のピーターだが,彼に恋人ができたと知ると,少し心寂しくもある.そんなある日,一通の入学願書が彼女の気を引いた.高校時代に交通事故で亡くなった初恋の彼と,同じ名前だったのだ.その学生と面談したルイーズは,名前ばかりか雰囲気も昔の恋人にそっくりな彼に,一目で恋に落ちる….

 によっては,虫唾が走るタイプの映画だ.40寸前の女性という役柄とはいえ,知的で魅惑的なローラ・リニーLaura Linney)が,15歳年下の青年を籠絡する.甘い言葉と姿態に,青年は抗うはずもない.純真に年上の女性に「よろめき」,免疫のなさから相手にのめり込み,憤慨する.若さへの嫉妬まじりに,大人の論理を知らず知らずのうちに押し付けるヒロインの態度など,すべてが凡庸.

 これをフィクションとして片づけるのか,現実の何かを追体験できるかで,大きく印象が変わる.コロンビア大学芸術学部入学選考部部長のルイーズ・ハリントン.同大の理学部教授ピーター・ハリントンと離婚したばかりの39歳である.F.スコット・ファインスタウントの出した一通の入学願書が,ルイーズの眼を引いた.その名は,ハイスクール時代に急逝した恋人と同一だった.

 ルイーズは,職権を利用し,個別面接の場にスコットを呼び出す.現れたその青年は,かつての恋人を彷彿とさせる風貌だった.通俗小説的だが,リニーの魅力で凌ぎきる.職権濫用で青年を呼び出した場目の「勝負服」には,呆れを通り越して感嘆すら覚える.別れた夫役のガブリエル・バーン(Gabriel Byrne)の性的倒錯の告白ぶりもインパクトがあった.

 年上女性に幻惑されるスコット・ファインスタウントは,野暮ったくてダサすぎる.彼のどこがよいのかまるでわからないが,荒々しく取って「食われる」彼の被害者面は,憐れみすら誘う.その意味では巧かった.ラブ・コメの王道からは程遠く,不惑を迎えようとする女性の「恋愛価値」の確認作業.それに付き合わされた相手のダメージを忖度するに,気の毒なばかりである.

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原題: P.S.

監督: Dylan Kidd

100分/アメリカ/2004年

© 2004 Hart-Sharp Entertainment,Fortissimo Film Sales

▼『自由と規律』池田潔

自由と規律: イギリスの学校生活 (岩波新書)

 ケンブリッジ,オックスフォードの両大学は,英国型紳士修業と結びついて世界的に有名だが,あまり知られていないその前過程のパブリック・スクールこそ,イギリス人の性格形成に基本的な重要性をもっている.若き日をそこに学んだ著者は,自由の精神が厳格な規律の中で見事に育くまれてゆく教育システムを,体験を通して興味深く描く――.

 井財閥の最高責任者で大蔵大臣兼商工大臣,枢密顧問官を務めた池田成彬の子息であった池田潔は,戦前イギリスのパブリックスクール(リース・スクール)からケンブリッジ大学,その後ドイツのハイデルベルグ大学で学んだ.

 ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の負うべき義務)が,イギリスの指導的立場となる上流階級の子弟に植え付けられる過程に,池田は立ち会っていた.規律なき自由は放縦につながり,自由なき規律は専制につながるという.英国流の民主主義精神の涵養には,全寮制で物質的に節制を強いる生活,文武両道に励むことが不可欠とされていた.

ある特定の条件にある特定の人間が,ある行為をして善いか悪いかはすでに決まっていて,好む好まないを問わずその人間をしてこの決定に服せめる力が規律である.そしてすべての規律には,これを作る人間と守る人間があり,規律を守るべき人間がその是非を論ずることは許されないのである

 「最も規律があるところに自由があり,最も自由なところに規律がある」.まさに至言.本書は教育論であり,コモンセンスの感覚を磨く伝統のあり方を述べる書でもある.古めかしい文言で費やされる厳格さこそ,軽佻浮薄が蔓延する現代への解毒剤と理解されるべきものである.

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原題: 自由と規律―イギリスの学校生活

著者: 池田潔

ISBN: 4004121418

© 1964 岩波書店