▼『系外惑星と太陽系』井田茂

系外惑星と太陽系 (岩波新書)

 天文学の革命的な進展により,いまや太陽系外に数千個もの惑星が発見されている.想像を超えた異形の星たち.ホット・ジュピター,エキセントリック・ジュピター,スーパーアース.その姿は,太陽系とは何か,地球とは何かという根本的な問いへとわれわれを誘う.「天空の科学」が明らかにする別世界の旅へ――.

 陽系以外の系外惑星の存在は,天文学の進展以前にもデモクリトス(Democritus)やエピクロス(Epikouros)といった原子論者が想定していた.しかしアリストテレス(Aristotelēs)や古代中国の五行説では天と地の万物構成によって世界を解釈し,太陽以外の恒星の周りを公転する惑星など考察の対象外であった.ジュネーブ大学のミシェル・マイヨール(Michel Mayor)とディディエ・ケロー(Didier Queloz)により,太陽系外の惑星(ホット・ジュピター)が発見されたのは1995年である.

 観測される光の波長が相対速度に応じて変化するドップラー効果を用いて,地球から約50光年離れたペガスス座51番星の近くに「木星の0.45倍」質量をもつ惑星を発見した.この惑星(51 Peg b)は,恒星までの距離800万キロメートルを約4日で公転していた.それ以降,系外惑星が続々と発見されることとなり,NASA系外惑星アーカイブによれば,確認済み系外惑星の数は5,005個,検出して確認が待たれている系外惑星候補の数は5,459個(2022年3月時点)に達している.さらに海を持ち,生命が存在する系外惑星(ハビタブル惑星)の発見に注目が集まっている.

 本書は,これまでに明らかになった系外惑星の真実,ハビタブル惑星の多様性を論じる.いわゆる"第二の地球"の探索は,ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin)の描いた《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》というキリスト教の教理問答の霊的影響と様式を生物科学で求めることに他ならず,系外惑星は「天空」の科学で,足元の地球を理解する「私」の科学との交錯がオルタナティヴな観点となっていて興味は尽きない.

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原題: 系外惑星と太陽系

著者: 井田茂

ISBN: 978-4-00-431648-0

© 2017 岩波書店

■「アカルイミライ」黒沢清

アカルイミライ 通常版 [DVD]

 他人とうまく関わり合えない青年・雄二.ある夜,彼が唯一心を許せる同僚の守が,勤務先の工場長夫婦を殺害した.刑務所へ面会に訪れる雄二に対して,彼に譲ったペットのアカクラゲのことばかり,守は気にかける.苛立つ雄二は水槽をひっくり返してしまうが,クラゲはそのまま床下に流れ去っていく.それからしばらく後,雄二にだけ分かる“行け”のサインを残して,獄中で守が自殺した….

 くつかの記号が,一定の方向性を示している.アカクラゲのアトランダムな浮遊は,若者の無軌道と被る.クラゲの発光は,若さを持て余す高校生の逸脱行動のシンボル「インカム」の点滅,彼らが着込むのは,チェ・ゲバラ(Ernesto Rafael Guevara de la Serna)の肖像がプリントされた画一的なTシャツ.おしぼり工場で惰性な生産ラインに乗るだけの雄二と守は,無感動で刹那的,しかしどこか禁欲的.守の穏やかな物腰に隠れた暴力性に惹かれる雄二は,粗野な高校生集団とも意気投合できる.本人が向うべき場所も,それを探す目的性も守は持たない.

 黒沢清のオリジナル脚本は,他人と適切に同調することもなく,相手を尊重しようとすることもない世代の憮然とした自己本位性を描くもの.本作の若者と,隔絶された中高年世代とのミスマッチを引き起こすパターンはセンチメンタル.2人の若者の行動様式を「だいたい把握した」とほくそ笑む雇用主は,まるで的外れの行為に2人をつき合わせるが,それがもとですべてを奪われる.未来はいつでも明るいと雄二はニヤつく.その未来は,睡眠中にみる夢においてのみ輝いていることを,彼は直視できない.

 守の父・真一郎の叱責.全共闘世代の男が,若者に向ける眼は,厳しくも共感的.雄二が胸襟を開き,夢の話を打ち明けるシーン.あるいは,厳しい咎めに逃亡後,真一郎の元に戻ってくる擬似父子関係.アプローチを正しく選択すれば,意味不明な行動者にアクセスできることの表れ.映画の解釈としては,真一郎が雄二に与えた「和解」「抱擁」は正しく,社長が守に与えた「強権による決定」は,「破滅」で報復された.

 もっとも,破壊のベクトルを自己に向けざるを得ない守の末路は当然であるし,真一郎も実子とは断絶関係にあって修復不可.“魚”には,適した“水”でしか応えられない.全編24PHDとDVで行われた撮影は,ハーフ・トーンを潰し,影の部分が真っ黒に塗り潰した.パシフィック231の音楽,北村道子の独創的な衣装.現実感を薄め,胡乱な世界を作り出す.だが,世代間落差の当惑に関しては,きわめて現実的なのである.

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原題: アカルイミライ

監督: 黒沢清

115分/日本/2002年

© 2002 アップリンク=デジタルサイト=クロックワークス読売テレビ放送

■「ゾディアック」デヴィッド・フィンチャー

ゾディアック ディレクターズカット [Blu-ray]

 サンフランシスコでカップルが襲われる事件が続発し,やがて犯行を告白する手紙が新聞社に届く.取り憑かれたように犯人を追う刑事,サンフランシスコ・クロニクル紙の記者と,その風刺漫画家.彼らの人生は,事件への執着によって次第に狂わされていく….

 ヴィッド・フィンチャー(David Fincher)の映画に入り込んでいくだけでは,スタイリッシュな映像に幻惑される.フィンチャーの触手にからめとられていることすら知らずに,軽妙でも重厚でもない彼の映像美に陶酔して,ほかのことを考える余地を忘れてしまう.逆に,そのようなフィンチャーに抗うことが,異様な快感を覚えさせる.けれど,それすらフィンチャーのロジックには組み込まれている.

 黄道十二星宮(zodiac)の黄色.1968年から1974年にかけ,サンフランシスコの住民を震え上がらせたシリアルキラー,ゾディアックの色である.警察が把握している件数だけで,同一犯により5人が殺害されている.1968年に2件の殺人を報せ,その後の連続殺人を示唆する電話がヴァレホ警察にかかってきた.暗号文を新聞社「タイムズ・ヘラルド」ほか2社に送りつけ,そこには円と十字を組み合わせた特徴的な記号が載せてあった.「3社の暗号を解読すれば,犯人にたどりつけるだろう」という.

 それは自分のことを「ゾディアック」と名乗った.さらに,紙面でこのことを大きく取り上げなければ,10人以上を殺害すると脅迫文には述べられていた.暗号文は雑多だった.占星術の記号からモールス信号,ギリシャ文字,気象学の記号などが一定の法則で羅列されていた.その暗号文を解読したのは,サンフランシスコの南160キロにあるノース・サリナス・ハイスクールで社会科を教える一教師だった.複雑な代理コードを根気よくはめ込んでいく作業を妻と一緒に続け,この教師は驚くべきことに,20時間のうちにほぼこれを解読してしまった.暴かれたメッセージには,ゾディアックの凶悪さと異常さが示されていた.

 オレハ人間ヲコロスノガ好キダスゴク面白イ森デ野生ノ動物ヲコロスヨリズット面白イ人間ガイチバンキケンナ動物ダカラダ

 ダレカ殺スノガ一番ゾクゾクスル経験ダ女ノ子トヤルヨリズットイイイチバンイイコトハオレガ死ンデパラダイズデ生マレカワッタトキオレガコロシタニンゲンヲゼンブ奴隷ニデキルコトダ オレハ名前ナンカオシエナイオマエタチガジャマシテオレノ死後ノ奴隷ノカズヲヘラソウトスルカラダ  *1

 犠牲者が翌年にかけて続出し,1974年にサンフランシスコ警察にゾディアックの筆跡で「37人を殺した.すさまじいことをやらかしてやる」と書かれていたが,その4年後にゲームの終結を一方的に告げる手紙を『クロニクル』紙に送りつけ,以後ゾディアックは警察とメディアへの接触を一切断った.事件から30年以上が経過した現在も,犯人は確保されていない.いまだ未解決の事件なのである.

 黄色は不安定の色だ.眩いほどの明るさをもたらす代わりに,イスカリオテのユダJudas Iscariot)の衣の色でもあった.ここから,黄色は卑劣な裏切り,スケープゴートを意味する色として,ヨーロッパでは忌み嫌われている.

 ゾディアックとは何者だったのか.少なくとも警察やメディアに対しては饒舌な男で,1969年当時,25-35歳くらい,ちぢれ毛で中背,小太りということは判明している.殺害を免れた被害者の証言により,似顔絵も作成されたのだが,自己顕示欲の強さが疑われるこの事件は,犯罪史上に残る「劇場型犯罪」の先駆けともされた.

 ゾディアックは,いつのころからか獲物を求めて,サンフランシスコのベイエリアを徘徊し続けていたのだろう.犯行声明と暗号を新聞社に送りつけ,ジャーナリストたちはこぞってゾディアックの分析を試みた.その中に,漫画家でジャーナリストのロバート・グレイスミス(Robert Graysmith)がいる.劇中ではジェイク・ギレンホール(Jake Gyllenhaal)が演じている.グレイスミスは,『サンフランシスコ・クロニクル』の風刺漫画を担当していたが,独自に捜査を開始すると,この事件にのめりこんでいく.彼は8年かけて『ゾディアック』という本にまとめあげるが,その間に2度目の離婚を経験し,妻と子に見離された.

 グレイスミスは,捜査担当のトースキイ(David Toschi)に接触する.これを演じたマーク・ラファロ(Mark Ruffalo)がすばらしい.また『クロニクル』の新聞記者,ポール・アヴリー(Paul Avery)は事件を追跡するが,ドラッグで身を持ち崩しリタイア.トースキイも3年,4年と時間が経過するにつれ,ほかの事件も管轄しなければならない事情から,ゾディアック事件だけにかまけてはいられない.ラファロはそのジレンマを微妙な表情でうまく演じ分けている.

 ただ1人,事件の戦線を離脱しなかったのがグレイスミスだった.なぜ,彼がそこまでゾディアックにのめりこまなければならなかったのか?ギレンホールもそれについて不思議に思っていた.そこで,フィンチャーに尋ねたことがある.「なぜ,グレイスミスはこんな行動に出たのだろうか」と.フィンチャーは答えた.

執着とは,分からないことを絶対に知ろうとすることを意味する.ところが,この事件は分からないことだらけで,知りたがる人をつぶそうとする破壊的な側面もあった

 ゾディアックは今でも,現地住民の間で語り継がれている.それは健全な市民生活を破壊し,警察との鬼ごっこを楽しんで自由に振舞っている殺人鬼,という恐怖.ゾディアックの暗号メッセージは,カリフォルニア医療研究所に送られた.診断結果は次のようなものだった.

ゾディアックはおそらくひとり悶々と考え込むたちで,心の奥底には深い孤独感と劣等感が居座っている…中略…「相次ぐ手紙や電話は,自分を見つけてくれ,正体を暴き,追い詰めてくれ,と犯人が願っているしるしかもしれない.その時には,この誇大妄想狂はおそらく大見得を切って,みずからの命を絶つことだろう.これまで自分をないがしろにしてきた世間を見返すために」*2

 フィンチャーはこの作品で,珍しくコケた,とする論にときどき出会う.今回の映画で彼がとった手法は,重要なファクターの描出をばっさり切り捨てて,ほかの因子を丹念にこすりあげていったところにある.すなわち,殺人事件で本来描かれるはずの,市民の恐怖が十分描かれていない.その代わり,ゾディアックの犠牲となった被害者の恐怖の叫びはつんざくほどで,耳に刺さる.けれど,ゾディアックが徘徊しているサンフランシスコの街で,この異常殺人者と同居している市民の慄きはほとんど出てこない.むしろ一度興味をそそられた市民も関心を失っていく様子のほうに軸は傾いている.

 事件の被疑者についての描写もきわめて粗い.ゾディアック事件について,各地の警察が取調べを行った被疑者の数は,2,500人以上にのぼる.しかし,年齢,筆跡,体型,顔のタイプ,ゾディアックと裏付けられるべき情報の面から完全に一致する人物は現れなかった.

 最後に,事件の真犯人とは認められないが,最も疑わしいとされた,ある男を紹介しておこう.映画では,この男が限りなくクロ,ということで残念そうに幕を閉じる.その男の話だ.その青年は,それまでの被疑者の中でも唯一,当局がつかんでいる6つの殺人事件すべての現場近くにいた.人相は,作られた指名手配の似顔絵そっくりだった.

がっちりした体躯で,腕っぷしはめっぽう強かった.聞き込み捜査によると,ティーンエイジャーのころ5人の海兵隊員をたたきのめした逸話の持ち主だという.知能も高く,IQは135以上.化学専攻の学生だけに爆発物の知識も豊富で,一時在籍した海軍で暗号作成の手順も習っている*3

 風貌は似ているし,この男ならゾディアックの好んだ暗号も駆使できる.疑わしい材料はまだある.映画ではゾディアックブランドの腕時計をしていたが,それだけではなく彼の指輪にも“Z”マークがついていた.1973年には,心理学者が青年にロールシャッハテストを実施したところ,潜在的な暴力性と殺人的な欲求を見出すことができた.2度目のロールシャッハを受けたのは,それから5年後の1980年のことだ.児童に対する性的暴行で,1975年から3年間,彼は収容施設で過ごしていたからである.

 2度目のテストの結果,“Z”からはじまる単語が多くの図版から言語反応として飛び出した.このあたりの事情も,映画で追っていくべきだった.そうすれば,多くの関係者が今でも真犯人と信じている男に対する疑惑の眼が映画の中でも強まった.それをいまさら隠せということでもないだろう.

 1992年にこの男は心臓発作で死んだ.どうしても物証がみつからず,逮捕できないまま第一被疑者であり続けた人物が死んだのだ.もちろん,彼が犯人だとは確定していない.しかしながら,ゾディアックからの手紙が警察に最後に届けられたのは1978年.1974年から4年間の空白があった後,手紙を送りつけてから,ぷっつりとゾディアックは連絡をよこさなくなったことを思い出す必要がある.『クロニクル』紙に4年ぶりに届いた手紙には,こうあった.

 親愛なる編集者殿.

 こちらはゾディアック,おひさしぶり.

 私はずっとここにいた.

 市警察のトスキも切れ者だが

 私のほうが一枚も二枚も上手だ

 そのうち疲れて私にちょっかいを

 出さなくなるだろう.私が主人公の

 いい映画ができるのを待っている

 私の役はだれになるだろう.

 私はいまやすべてを支配している.

 ごきげんよう

   ご想像にまかせる  SFPD-0 *4

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原題: ZODIAC

監督: デヴィッド・フィンチャー

157分/アメリカ/2006年

© 2006 Warner Bros. Pictures, Paramount Pictures, Phoenix Pictures, Road Rebel

 

*1 http://yami.main.jp/zodeakku/zode.html

*2 タイム・ライフ編 ; 北代晋一訳(1995)『未解決殺人事件』同朋舎出版,pp.32-33

*3 前掲書,p.92

*4 前掲書,p.88

▼『キンダートランスポートの少女』ヴェラ・ギッシング

キンダートランスポートの少女

 私はユダヤ人の血を受けチェコ人として生まれ自らの選択でイギリス人になった人間なのです.ナチスの過酷な迫害にさらされたユダヤ人の子供たちを疎開させるキンダートランスポート(子供の輸送)でチェコからイギリスに渡ったユダヤ人少女ヴェラ…10歳で両親と別れて6年を異国でおくる.帰還して知った父母の消息の真実は…故郷で待ちうけていたことは――.

 チスドイツの脅威が欧州大陸に急速に広がり,欧州諸国でユダヤ人の受け入れが制限された時期のキンダートランスポート(子供の輸送).その当事者となったヴェラ・ギッシング(Vera Gissing)の自伝である.イギリスのユダヤ人団体やクエーカー教徒の尽力により,ポグロム後にユダヤ人の子どもの安全が図られた.

 1939年3月14日から8月2日までの間に,669名の子どもたちをチェコから脱出させることに成功したニコラス・ジョージ・ウィントン(Sir Nicholas George Winton)は,チェコ・キンダートランスポートを組織したイギリス人.この運動によって,約1万人の「ユダヤ人の子」がイギリスに救出された.子供たちの里親は,国内の反セム主義の興隆を恐れるイギリス政府やユダヤ人社会により,地域的に拡散させられた.

 対ドイツ宥和政策で批判を浴びたイギリス政府が,再出国を前提に,ヴィザを不要として入国を許可した.しかし,子どもだけを対象に受け入れを認めたことは,キンダートランスポートがディプロマシーの域をむろん出なかったためであろう.反セム主義の興隆への警戒と,牽制が考えられる.

 ユダヤ人の血を受けチェコ人として生まれ,自らの「選択」でイギリス人になった人間が,宗教(ユダヤ教あるいはキリスト教)の信念を各地で強要されれば,自我の混乱が起きる.10歳で両親と別れて6年を異国でおくり,チェコに戻ったギッシングは,祖国への愛着よりも,筆をとることにアイデンティティの保持を見出す.それは,マルグリット・デュラス(Marguerite Duras)の「速く書くための,忘れないためのわたしの手の努力」に似ている.

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Title: PEARLS OF CHILDHOOD

Author: Vera Gissing

ISBN: 9784624111991

© 2008 未来社

▼『地獄の季節』アルチュール・ランボー

地獄の季節 (岩波文庫)

 16歳にして第一級の詩をうみだし,数年のうちに他の文学者の一生にも比すべき文学的燃焼をなしとげて彗星のごとく消え去った詩人ランボオ(1854‐91).ヴェルレーヌが「非凡な心理的自伝」と評した散文詩『地獄の季節』は彼が文学にたたきつけた絶縁状であり,若き天才の圧縮された文学的生涯のすべてがここに結晶している――.

 ール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)とアルチュール・ランボー(Jean Nicolas Arthur Rimbaud)の叙情性を吸収していった中原中也のことも懐かしい.中原の得たフランス近代詩エッセンスは,小林秀雄の計らいによる富永太郎との邂逅がなければ,ありえなかった.当時23歳にして卓越した批評眼を振り撒いていた小林は,指導教官の辰野隆鈴木信太郎がその「ランボオ論」を読んで受講を免ずることも好しとしたくらいだった.小林は富永にランボーを紹介している.

 かつては,もし俺の記憶が確かならば,俺の生活は宴であった.誰の心も開き,酒という酒はことごとく流れ出た宴であった.

 ある夜,俺は『美』を膝の上に座らせた.―苦々しいやつだと思った.―俺は思いっきり毒づいてやった.

 俺は正義に対して武装した

 富永は散文誌『秋の悲歎』で高評されるが,小林は中原だけでなく富永をもランボーの世界へと手引きした.本書は,1873年ベルギーのブリュッセル,ポート書店にて印刷完了したランボー散文詩集.堀口大学や粟津則雄も邦訳を手がけているが,小林訳の肥沃な文学観の前にそれらは霞む."voyant"を訳すには「警告灯」「透視能力」「目撃」などが考えられるというが,これを小林は「千里眼」とした.そのニュアンスは,透徹した感性で16歳にして第一級の詩を書いた(本書にも収録)ランボーのニュアンスを,かなりの精度で拾い上げている印象.

 また見つかった.―何が,―永遠が.海と溶け合う太陽が

 俺は架空のオペラとなった.俺は全ての存在が,幸福の宿命を持っているのを見た.行為は生活ではない,一種の力を,言わばある衰耗をでっち上げる方法なのだ.道徳とは脳髄の衰弱だ(錯乱Ⅱ)

 同性愛関係に陥るヴェルレーヌとロンドンに滞在していた1872年頃,本書の執筆にランボーはとりかかっている.翌年の7月には別れ話がこじれて酔ったヴェルレーヌランボーの左手首を狙撃する「ブリュッセル事件」が起きている.ランボーは市内の病院に入院後,ロシュで本書の構想と執筆を続け,73年の8月中に完成したという.その主題は,心身の修羅場を乗り越え,魂を止揚するような語句の連続美に内包されている.詩的意識は,情熱の炎を思わせるほどに激しい.本版では,ランボーの文体を,小林訳でじっくりと愉しめる.

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Title: LES ILLUMINATIONS UNE SAISON EN ENFER

Author: Arthur Rimbaud

ISBN: 4003255216

© 2008 岩波書店